Diary 2004. 2
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2月26日 (木)  近頃少し怒っています

近頃、何か変だ、世の中はおかしい、日本はどうなってしまったんだ、と思えることがあまりにも多すぎる。ほぼ毎日発生する殺人を含む凶悪犯罪、親による子供への虐待、または逆のケース、オレオレ詐欺はじめいわゆる昔からある内職商法の亜流ともいえるチラシ配りの詐欺、数々の実体のない金融商法、カードがらみの事件、決して完璧には流失を食い止めることができない各種顧客データ、自殺者は年間3万人を越えるという異常な事態などなど。
しかしこれらは誰もがあまり驚かない日常的な事で、今やごく当たり前の出来事になってしまったのであろうか。何やら変だと思うこちらが変なのかもしれないと一瞬錯覚してしまうほどである。

大上段に構えるほどの情報を持ち合わせているわけでもないし、悲観論者でもないつもりのそんな私にも、許せない、理不尽だろうと思える事柄が巷に満ち溢れているようだ。
崩れ落ちるように悪い方向に向かっているのではと考えざるをえない日本の気配といったものを近頃感じるのである。

まずは、当然気になるのは自衛隊イラク派遣の事だ。小泉総理はいったいどう乗り切るつもりなのかは、国会においてのますます磨きがかかったともいえる横柄なとぼけ方、力の入りすぎた冷静さを欠いた声高な答弁は、テレビ中継を見ているだけで気持ち悪くなるほどだ。戦争を始めた当事国アメリカでさえ、結局大量破壊兵器はなかったのだということが明らかになりつつある現在、同じ理由によって先制攻撃に同調した小泉総理が、ノラリクラリと矛先をかわし未だ責任の所在を明らかにしないのはおかしな話である。

北朝鮮拉致問題に関しても、相変わらずの外交下手がまたもや露呈したとしか言いようがなく、遅々として何も進展しない事態には驚くばかりである。被害者家族の悲痛な叫び、もどかしさが嫌と言うほど伝わってくるのはいうまでもなく、日本政府を全く信頼していないだろうと思える当事者の話は、見ていてこちらが恥ずかしいほどである。外務省関係者、とりわけ川口外務大臣の相変わらずの官僚任せの交渉にはがっかりするとともに、全く人ごとのような無表情な国会答弁は信頼感とはほど遠いものに見えるのである。

小泉総理自身も、対北朝鮮協議には欠かすことのできない隣国、中国への訪問すら果たしていない。靖国問題なども意固地に成らず近隣諸国を考慮した柔軟な姿勢で対処し、アメリカ一辺倒の政治姿勢から、身近なアジアを見据えた、真に日本国民の将来の為の政治を望むばかりである。

国家転覆を狙ったまさにこれこそテロだといえるオウムサリン事件をみても、巻き添えにあった一般市民への被害者救済は9年たった今でもなされていない事実を見ると、国内外を問わず国民が非常事態に遭遇、被害を受けた場合、日本政府は、早急に、真剣に国民を守り、救いの手を差し伸べる事は決してしないのだという情けない現実が見えてくる。

年金の事に関しても、今頃大騒ぎをしているのだが単に無計画だったとしか言いようがない。厚生年金や国民年金の積立金1兆5000億円以上が、厚生年金会館、健康福祉センター、老人ホームなど全国265の施設の建設に投じられたものの、経営内容に民間並の基準を当てはめると、97%にあたる256ヶ所が2002年度は赤字になるという。老後誰にも関わる問題だけに、支払われるべき原資を著しく目減りさせた社会保険庁の責任は大変大きいと言わざるをえない。

牛肉BSE問題、鳥インフルエンザ問題から改めてはっきりしてきた問題、食料自給率40%という先進諸国の中で最低の日本の農業政策の失敗などなどお寒いかぎりの話ばかりだ。

公務員宿舎の民間相場からかけ離れた低額家賃、消防庁幹部への高級住宅の無償提供、あり余った運転手付き公用車、数々の天下り、などなど枚挙にいとまがないほどの役人天国日本はいったいどうなっているんだ、と腹立たしいばかりである。自身にも言い聞かせているのだが、真剣に怒らないといけない時期に来ているのだとつくづく思う。国民はどうせほとんどが無関心だと見抜かれており、いいようにされているというのがあたらずといえども遠からず、実情なのだと思う。
安心して将来を託せる政府を心から求めたい。


2月29日 (日)  The Game

フランスの劇作家ウジェーヌ・イヨネスコが1952年に発表した「椅子」から構想を得た香港・劇場組合(シアターアンサンブル)制作の「The Game」が新国立劇場で上演されている。

現代人の不条理性、不毛性を描く不条理劇だが、共に演出家でもあり俳優でもあるジム・チムとオリヴィア・ヤンの二人芝居である。

「物語は世界の週末に始まる第N次世界大戦が開始して99年目の年、101才のカップルが高い塔に閉じこめられ隔離されている。2人は彼らを憐れむ聖者が現れることを心待ちにしており、聖者の訪れまで時間をつぶすために「椅子」というゲームをする。
ゲームのなかで彼らはお互いを鼓舞し励ましあい、それが彼らの生活の中心となっていく。時が過ぎていくが聖者がいまもって彼らの前に姿を見せないことに2人は恐れを抱く。ゲームが永遠に続くのではないかという不安から、聖者がすぐに現れてくるような行動も取り始めるが、次第に彼らは自滅的になっていくのだった」
〜「The Game」パンフレットによる〜

「101才を想定したブルーの顔の色、年齢が重なれば不自由になるということから、衣装には制約をつけ動きにくくしてあり、2人の道化的な演技を考慮したものとなっている」
〜舞台装置、衣装、メイクアップのチャン・マントンによる〜

勿論、字幕があるとはいえ広東語の舞台であるが、全身から発せられる2人の台詞とその声、絶妙な間など、あるいは、事前に簡単なバックグラウンドを知った上で2人の老人が何かやっていることを理解しているからなのか、途中から字幕などほとんど気にならなくなってくるから不思議だ。

世紀末を感じさせる場面から、人類の苦境、不幸、人生のむなしさ、人の一生とは、存在とは、次々に90分の間に凝縮されるのだが、誇張されたユーモアとリズム感溢れる軽快な、そして奇想天外な独特の動きによる演技とによって最後まで関心を持続させられる。人生の岐路に立ち深い絶望感に苛まれる喪失感が描かれるが「人類万歳」という叫びによってかすかながら一筋の希望も感じさせられる。新しい経験であった。


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