2)「異国の丘」〜高齢者と戦争 その1〜



 今年も8月がやってきた。
 昨年の8月は、小泉首相の突然の靖国神社参拝でいろいろ揉めていた記憶がある。
 
 わたしの職場を利用している利用者さんの平均年齢は、大体76〜78歳くらいなので、ほとんどの方が何らかの形で戦争を体験していることになる。そのうち、男性の利用者さんは2割ちょっとなのだけど(最高88歳、一番若い方で71歳かな?)、実際に戦地に赴いた方も少なくない。当然のことながら、わたしたちは戦争を体験したわけではないし、「知っている」ことは少なくないけど、「わかっている」わけではない。だから、戦争のことを話すときにはかなり真剣に言葉を選んでしまう。

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 仕事柄か、昔の流行歌に接するうちに、軍歌以外にも戦争を扱った歌が多くあることに気がついた。中でもわたしの記憶の中に深く刻み込まれているのは「異国の丘」という曲である。(歌詞はこちらからどうぞ)
 この曲は利用者さんの間でもたいへん人気の高い曲で(特に男性に)、わりとよく歌の時間に歌っていたのだけど、ある出来事を境に、わたしが司会の時にはこの曲を選ぶことをやめてしまった。

 俊夫さんは当時85歳。わたしの父と出身地が近いということで、すぐに名前を覚えてもらった。少し気難しそうだけど、なかなかユーモアのある方。わたしもすぐに俊夫さんと打ち解けられるようになる。そんな俊夫さんも、結婚したばかりの奥様を置いて戦地で戦った経験をもつという。
 俊夫さんがいらして間もない歌の時間、わたしが司会になった。何気なく選んだのが「異国の丘」だった。
 きっと俊夫さんも歌ってくれるだろう、と思っていた。しかし、曲の間俊夫さんは、口をへの字に曲げて、何かに必死に耐えているような表情をしていた。隣に座っていたスタッフが、不思議に思ったのか、俊夫さんに「この曲は嫌いですか?」と聞いているのが聞こえてきた。
「この曲は戦争の辛い思い出を思い出させるから、悲しくてだめだ」と、俊夫さんは答えていた。
 確かにこの曲の詩は容赦ない。微かな希望を感じさせるフレーズもあるけれど、曲全体に流れているのはおそらく「戦地での非情なまでの辛さ」なのだろう。

 これは現代を生きるわたしたちにも言えることなのだけど、音楽というものは、その人の当時の気持ちや状況までも、瞬時に思い出させるような力をもっていると思うのだ。それらがいい思い出であろうと、悪い思い出であろうと。そして、よろしくない思い出がよみがえった時、その音楽は人を傷つけてしまう凶器にもなりうる。
 そして悲しいかな、わたしが選んだ曲によって、俊夫さんが辛い思いをしてしまったことは事実だ。それ以来、わたしは自ら「異国の丘」を選ぶという行為をやめた。リクエストがない限りは、歌わない。

 高齢者が沢山集まれば集まるほど、戦争に対する感じ方や考え方は様々だ。俊夫さんは決して自ら戦争の話を積極的に語ることはなかった。
 手前味噌で恐縮なのだが、去年の母方の祖父の一周忌の時、意外な話を父から聞くことになる。
ちなみに、母方の祖父もどこかに抑留されていたらしい。それに気づいたのは愚かにも祖父の没後であった。そして、父方の祖父は、14年前の夏に、88歳で亡くなっている。父の実家は南九州の某県であるため、一番最後に行ったのはもう20年近く前であるし、あまり交流はなかったのだけど。
14年前に88歳だったということは、きっと明治生まれだったのだろう。
 
 法事が終わり、少しアルコールが入って、従兄弟と叔父と父とで、祖父の戦争の話になった時のことだった。年下の従兄弟が「おじいちゃんはあまり戦争の話をしなかった。」と話すと、すでに酔いはじめていた父が続けた。
「俺の親父も、背中に大きい傷があったなぁ。きっと戦争で受けた傷なのだろうけど、その傷について自分から話す事はなかった。聞いちゃいけないような雰囲気を持っていたんだろうね」と。
 父でさえ、戦争の話を父親から聞いていなかったとは、驚きだ。祖父は、本当は戦争の話を息子にしたかったのだろうか。それとも祖父の胸だけにそっとしまっておきたかったのだろうか。
 今となっては、それを知る術もないけれど。

 一方でわたしの職場にいらしている五郎さんには、若干の痴呆がある。五郎さんは、シベリアに抑留されていた経験があるそうだ。というのも、五郎さんは事あるごとに、「俺はシベリアで捕虜になったことがある」と話しているから、すぐに憶えてしまった。
 実は痴呆のある方については、いくつかの共通点があって。その共通点の一つが「若い時の強烈な記憶を、繰り返し話す傾向がある」ということなのだ。別の女性は「若い時に結核で療養していた」ということを繰り返し繰り返し話し続けるように、五郎さんにとっては、シベリアに抑留されたことは人生の中での転機になっているに違いない。いや、事態の重さから推し測ると、人生の転機にならないわけがないだろう。今の五郎さんはその時の状況を事細かに話すことはできない。しかし、五郎さんとの会話を交わしていると、シベリアの空気の冷たさや、仲間が次々と隣で亡くなっていく様子ははっきりと覚えているように感じるのだ。そして五郎さんは話す。「僕らは捕虜だったから。人間として扱われることはなかったんだ」と。
 もし、五郎さんに痴呆がなかったら、五郎さんの口から戦争の話を聞くことはあったのだろうか。
 本当に辛かった経験なんて、あまり多くを語れるものではないのかもしれない。
 そう考えると、痴呆のある人が発するメッセージに、もっともっと耳を傾けなくてはと反省せずにはいられなくなってしまうのだ。

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 8月ということで、何回かに分けて、戦争にまつわる話を書いていこうかと思います。
 次回は、女性から見た戦争について触れてみる予定です。

                                                          (2003.8.9)


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