3)忘れな草をあなたに〜お年寄りと戦争 その2〜


 わたしの職場の利用者さんは、7対3の割合で女性が多い。
 その7割の女性のうち、大正以前に生まれた方が約7割。戦時中に新婚時代を迎えた方が少なくない計算になる。そんなわけで、今回は、「女性が感じた」戦争の話。

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 戦時中においては、兵役に行った男性が「攻め」の身であるならば、女性と子どもはただひたすら「待つ」身であったのだろう。その相手が、肉親であるか、夫であるか、友人であるかによって、若干の感じ方の違いはあるだろうけど。
 
 ボランティア先で仲良くなったいち子さんは、東北の出身だ。ある日、召集がかかり、家族揃って海軍に入隊した弟さんを、横須賀まで送って行ったそうだ。弟さんの話をなさる時のいち子さんは、いつも遠い目をしつつもどことなく涙声になってしまう。
「弟を送って行った日はとても天気がよくてね。まさかその日が、弟を見る最後の日になってしまうなんて、思っても見なかったわ」と彼女は話す。当時30歳前後だったいち子さんにとっては、きっと戦争には勝つと思っていたのだろうし、弟さんも無事に復員できると思っていたのだろう。もし、いち子さんが母親の身であったら、どのように感じていたのだろうか。
 弟さんは、その後戦死したとの知らせをうけたそうだ。

 前回の話にも登場した五郎さん。五郎さんは5人兄弟の三男坊。三人とも招集されたそうだ。「3人とも招集されてね。お袋は泣きじゃくって、行かないでくれって言っていたんだよ。兄貴達は二人とも戦死して、僕は捕虜になったけど日本に帰ってこられたんだ。一番出来の悪いのが残っちゃったんだけどね。でも、帰ってきたときお袋は喜んでくれたよ。僕もいつ死んでもおかしくなかったからね。」
 今のわたしには、きっと五郎さんのお母様の気持ちはわからないだろう。それでも、母親の勘というのだろうか、泣いて五郎さんのお兄さんや五郎さんを止めたのだから、きっともう会えないと感じていたのかもしれない。
 
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 戦死した兵士の遺体はどうなるのだろうか?と、近代史を学んでからはかなり真剣に考えたことがある。このテキストを書くために、いくつか調べてみたところ、基本的には軍が遺体を遺族のもとに戻すか、火葬して遺骨を遺族に届けるそうである。しかしながら、その処理が間に合わないことも多く、その場合は土葬され、埋葬場所を遺族に知らせるのだとか。
 ただ、遺体や遺骨が完全な形で帰ってくることはそれほど多くはないそうだ。それ以前に、爆弾で体がばらばらになってしまったり、特に海軍の場合には船ごと沈んでしまい、遺体を見つけることすら困難であることが多いのだと。

 わたしの職場に来ている最古参の一人である一美さんは、大正7年生まれ。早くに職人のお父さんを亡くして、妹さん弟さんを養うためと言われ、小学校も卒業しないままお母さまと離れて奉公に出されたという。12歳の時から働き始めて、いろいろな困難をくぐり抜け、職を変えながら辿り着いたのが、ある料亭の女中だったそうだ。そこで一緒に働いていたのが、後に夫となる松次郎さんだったという。
 一美さんがご主人の話をするときは、いつも少女の表情に戻る。「わたしは大野(松次郎さんの姓・もちろん仮名)と、好き同士になって、結婚することになったの。」と。勤め先の料亭で、女将さんの計らいによって結婚式を挙げたのだそうだ。いつか、結婚式の時に撮ったという写真を見せていただいたことがある。美しいセピア色に変わってしまった写真の中には、男前の松次郎さんと、幸せそうに、でも少し緊張の色を隠せない一美さんとがいた。一美さんは少し頬を赤らめながら、こっそりとわたしたちに耳打ちする。
「実はこのとき、お腹の中に倅がいたのよ。4ヶ月だったの!」おそらく、一美さんたちが結婚されたのは、昭和15年の末から16年にかけてのことであると思われる。

 しかし、戦時中のこと、幸せな時間はそう長くは続かない。
 息子さんが生まれて3ヶ月くらい経った後、松次郎さんのもとにも召集令状が届いたのだそうだ。松次郎さんは海軍に入り、一美さんも松次郎さんが内地にいるうちは、何度も横須賀まで息子さんを連れて会いに行ったという。やがて松次郎さんも船に乗って、海を渡っていく。
 しばらくして、一美さんのもとに届いたのは、松次郎さんの死亡通知だったという。
 「ちょっとしてから、箱が届いてね。『大野松次郎、マリアナ海溝付近にて死す』って書いた紙切れ一枚だけが入っていたのよ。なんだか死んじゃったっていう実感なんて全然わかなかったわ。」
 一美さんはそれからしばらくしてからうんと年上の人と再婚した。一美さんは言う。その結婚はたった一人の、松次郎さんの血を分けた息子さんを育てるための手段の一つであったのだと。一生懸命に働いて、息子さんを大学まで通わせ、二人目のご主人を看取った一美さんが一番初めにしたことは、一美さんと息子さんの姓をそれまでのご主人の籍から抜き、松次郎さんの姓である「大野」に戻ることだったという。
 息子さんが社会人になってからのことは、あまり聞くことがない。ただ聞いているのは、一美さんが実のお母さんを看取ったということ、そしてお母様が亡くなってしまった後、2,3年の間、すこしだけ心を病んでしまったこと、さらに息子さんは、一美さんが懸命に息子さんを育ててきた姿を見ているので、今でも一美さんを大切にしてくださっているということだ。偶然にも、一美さんの息子さんはわたしの父と同じ年で、しかもわたしの誕生日と2日違いなのだった。
 たまにわたしの職場にも息子さんが見えるのだが、息子さんがいらした時や、わたしたちに息子さんの話をするときの一美さんの顔は、まるで恋人の話をしているかのような表情になる。こんな言い方をするのはおこがましいのだけど、本当に、そんな時の一美さんはかわいらしいのだ。

 一度だけ、当時新米職員だったわたしは、一美さんに尋ねてみたことがある。
 「大野さんって、とても大好きだったご主人とも長く一緒にいられなかったし、物凄く苦労されて息子さんも育てられて、お母様も最後まで看取って、大変だったって思ったことはないんですか?」と。すると一美さんは静かに語った。
「いやあ、大変だと思ったこともあったけどね。しょうがないのよ、そういう時代に生まれちゃったんだから。でもね、全然後悔はしてないのよ。毎朝ね、お仏壇に向かって、『倅を残してくれてありがとう』って話しかけているの。好きな人と一緒になって、倅が生まれて、その倅も大きな病気一つせずに、60過ぎまで生きていてくれてるんだから。」
 一美さんの松次郎さんに対する気持ちは、50数年経った今でもきっと変わっていないのだろう。
二度と動くことはない、お二人の間の時計なのだけど。
 
いつの世も いつの世も 別れる人と
  会う人の 会う人の
  運命(さだめ)は常に あるものを
(『忘れな草をあなたに』作詞:木下竜太郎より)

 この世の中にそれほど多くの「絶対」は存在しないと、わたし自身は思っている。しかし、「死」だけは間違いない「絶対」の一つであろう。戦争は間違いなく、その「絶対」を近づけてしまう力を持っている。本人の意思とはかかわりのないところででも、だ。
 逝ってしまった人は、思い出の中でしか生きられないし、その思い出が現在進行形の生活を助けてくれることは極めて少ないだろう。それでも、戦争で大切な方を亡くされた方にとっては、その時の気持ちを一生抱えて生きていくのだろう。物は捨てることができるし、時間が経てば諦めもつくのかもしれないけれど、大切な人に対しての気持ちというものは、きっと捨てることができないものだと思うから。

 もし、生まれ変わりというものがあるのならば。
 二度と同じような思いをする人が少ない時代がくればいいと、心から願っている。
 
 そうそう、勿忘草の花言葉は「あなたを忘れない」なんだね。
 わたしたちが利用者さんたちにできることといったら、大切な人の記憶を、亡くなる瞬間まで再生できるように助けること。どれだけの力になれるかはわからないけれどね。

(2003.8.15)
 

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