夏の潟交  でも盛夏はへたばって秋口まで待ちました 1つ前のページ
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 日頃わたしゃ神というのは目に見える形なんかでは存在しない、あるとすればそれを思う人の心の中だと思っているのです。きっと「神を感じる」てのは、その人が心で思っていることが口を突いて、行動として出てくるだけなのかな、と。でもそう言いながらも書いてしまいます。

 ツクモノカミって知ってますか?
 ものを大切に使っていると宿るという神様です。

 潟交を巡っていて、ふと息吹を感じることがあります。
  何十年も昔から重い音を立てるモータ、
  幾度の吹雪に耐える小さな待合室、
  そして春になると草に覆われる線路、
 それらを見ていると、自然の力で、人の力で、命を吹き込まれてそこに根付いているものを感じてしまいます。きっとこれがツクモノカミなのかなぁ。

 人の都合で打たれた運命の日のあと、ツクモノカミは消えゆくものからどこへ行ってしまうんでしょう。「神はその人の心の中にいるものだ」とすると、その人が忘れることによって、ツクモノカミは無事抜け出してどっかに行ってしまうんでしょう。

 では、忘れなかったときはどうなるの?
 それが壊されるとき、私の心の中でも何かが引き裂かれるの?

木場駅 平成10年9月
きっぷうりば
(許可を得て撮影)
板井−七穂駅間 平成10年9月2日
秋の田の
木場駅 平成10年7月4日
昭和30年代へようこそ

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