夏の潟交 でも盛夏はへたばって秋口まで待ちました |
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日頃わたしゃ神というのは目に見える形なんかでは存在しない、あるとすればそれを思う人の心の中だと思っているのです。きっと「神を感じる」てのは、その人が心で思っていることが口を突いて、行動として出てくるだけなのかな、と。でもそう言いながらも書いてしまいます。 ツクモノカミって知ってますか? ものを大切に使っていると宿るという神様です。 潟交を巡っていて、ふと息吹を感じることがあります。 何十年も昔から重い音を立てるモータ、 幾度の吹雪に耐える小さな待合室、 そして春になると草に覆われる線路、 それらを見ていると、自然の力で、人の力で、命を吹き込まれてそこに根付いているものを感じてしまいます。きっとこれがツクモノカミなのかなぁ。 人の都合で打たれた運命の日のあと、ツクモノカミは消えゆくものからどこへ行ってしまうんでしょう。「神はその人の心の中にいるものだ」とすると、その人が忘れることによって、ツクモノカミは無事抜け出してどっかに行ってしまうんでしょう。 では、忘れなかったときはどうなるの? それが壊されるとき、私の心の中でも何かが引き裂かれるの? |
きっぷうりば (許可を得て撮影) |
秋の田の |
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