Hi-Fi な出来事 Hi-Fiな人々 NO.3 斎藤 哲也

 


  いくつかの選択肢が与えられていて、そのどれを選べばいいのかわからない――そうやって「迷う」ことがぼくらの生活にはたくさんある。一方で、いまは深入りはしないけど、選択肢すらない迷いもある。前者の迷いは、二本道とか三本道に分かれたとき、どの道を選ぶかという状態で、後者は、目印すらない砂漠でオタオタする状況だ。とりあえず、そういう二つの迷いがあることだけ押さえて、今は前者のほうの問題に絞って考えていこう。


 まず最初に、どうしても認めてしまわなければいけないことがある。それは、人間には選べないことがたくさんあって、それが根源的な不平等をもたらしている、という否定しようのない事実だ。この原稿の第一回目でぼくは次のように書いた。


「今の世の中、建前上は職業選択の自由が保証されている。江戸時代のように、出自や性別によって生まれたときから職業が決まってしまってはいない。」


 たしかに、出自、生まれた場所、性別、姿かたちだけで人生は決まったりはしない。でも同時に、それら選べない事柄がまったくいまの自分と無縁ということはないだろう。正確な因果関係をたどることは難しくても、選べなかった事柄が決めてしまう利益や不利益は厳然としてあり、そこに迷う余地はない。福田恆存という思想家は、『私の幸福論』(ちくま新書)のなかで、こんなに恐ろしいことを言ってしまっている。


 なるほど、美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かもしれませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです。(『私の幸福論』)


 さらにぶっちゃけて言ってしまっているのは、阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』を書いた色川武大だ。


 人間は、やっぱり、二代も三代も前からのトータルで考えなければならないし、二代も三代もの長い時間をかけて作られてくるものなんですね。
 生まれちゃってから、自力だけでできることというのは、意外に少ないんです。
 (中略)
 中学生くらいで、ある日、ハッと気づいて、生き方を直そうと思う。努力することは、努力しないよりはいいにちがいありませんが、もうおそい、ということもあるんじゃないか。(『うらおもて人生論』)


 念のため言っておくと、いま挙げた2冊は、「だから諦めろ」という本じゃない。そうじゃなくて、生まれつきのマイナスを直視しながら、いかに生きるかを説いている、どちらも超一級品の人生論だ。


 もちろん、いまの自分にとって、選べないことは、出自や性別だけじゃない。不意の偶然もあっただろうし、置かれた状況から選択の余地が奪われることもある。じゃあ、そうした自分にとって「迷えない=選べない」事柄があることは、「迷う=選べる」こととどう関係があるのか。結論からいえば、選べない事柄はそれとしてクリアしないと、迷うことすらできないのだ。


 極端なたとえだが、自分がモテないことを、(自分の努力は一切棚に上げて)「こんな顔に生んだからだ」と親のせいにばかりしているA君がいたとしよう。その考えを続けるかぎり、いつまでたってもA君には、モテるための選択肢は与えられない。だって、A君は「親」という選べないものをモテないことの原因にしちゃってるんだもの。


 逆に言えば、「ま、仕方ないな。いまさら親を恨んだって変わるもんじゃあるまいし」と折り合いがついたときこそ、A君には「じゃあ、どうしよう」と何かを選ぶ態勢が整うということだ。


 そういうわけで、優先順位のつけ方に迷うあなたは、すでにA君のような状態はクリアできている。そして、それはじつは大したことであり、ラッキーなことなのだと思う。


 こうしてやっと、前回の話の続きができる。「迷う」といっても、その程度はさまざまだ。CDショップで、CDを2枚買うか、それとも(ちょっと懐は寂しくなるけど)思い切って3枚買うか――こんな他愛ない迷いもあれば、会社を辞めようか辞めまいかといった、その後の人生を左右しそうな迷いもある。そこに万能の答えはないことは、前回述べたとおり。でも、そもそも人はなぜ、複数の選択肢を前に迷うのか。この問いは、まだ登場していなかった。


 他愛のない迷いは、その場で決断され、迷ったこと自体もすぐに忘れ去られていく。たしかにぼくは今日、帰宅途中にブックオフに行こうかどうかと迷い、結局行かずに帰宅した。でも、この迷いは、きっと明日になれば忘れてしまうし、その後の自分の人生を脅かしたりしないだろう。でも、大学を卒業して就職しようかどうかと迷って、結局、就職を選んだことは、会社を辞めている現在でも、「いまの自分は何者か」ということを、かなりの部分で決定付けているように思う。


 人が優先順位を知りたくなるような迷いというのは、当然ながら後者のような迷いだ。そして、そうやって迷うのは、現在の自分の選択が、未来の自分に大きな影響を及ぼすことを見越しているからだろう。


 このことは、前回書いた「複数の自分」という話とも無関係じゃない。会社での自分、家族での自分、一人きりのときの自分というように、人は、その人生の大部分を複数の自分を並立させながら生きている。ところが、こうした複数の自分が衝突してしまうことがある。中学校までピアノを習い続けたBさんは、高校受験で普通の高校に行くか、音大付属に行くかで迷っている。それまでは、「ピアノを弾く自分」と「学校の勉強をする自分」とは、容易に並立できていた。でも高校受験の時点で、このバランスは崩れ、どちらかを選ぶことによって、「自分は何者か」ということを徐々にではあれ定めていく。


 何が言いたいのかというと、深い迷いは、安定して並存していた複数の自分を崩すきっかけになるということ。そして、そのつどの選択によって、複数の自分は等価ではなく、何かしらの序列をつくっていく。仕事人間としての自分、趣味人としての自分、家庭第一の自分――といったふうに、その規定は人によりさまざまだが、自己規定には明らかに序列がある。


 人は場に応じてキャラを使い分けていくとしても、見せるキャラには、「自分は何者か」という規定が、意識するしないにかかわらず反映される。頑固一徹、どこでも自分を貫き通すようなオヤジもいれば、場の性格によって無口にも雄弁にもなるOLがいる――この二人の違いは、「真なる自分」があるかどうかではなく、複数の自分の序列化の程度差ではないだろうか。


 というわけで話は、「迷う自分」から「複数の自分の序列化」へとつながっていく。この架橋の内実をもう少し考えてみたい。そしてそこから、「自分探し」「自己実現」「ほんとうの自分」という言葉を、従来とは違う角度で捉えなおしてみたいと思う。
 



To 斉藤哲也さん
 いただく文章、またしたも、面白いです。真っ先に読ませていただく幸運に感謝しちゃいました。
 迷うことがギミックに使われるビジネス。街を歩いたり、ネットショッピングをしたりすると、そうした手法が目に付きます。モールタイプのショッピング・センターや、
カレー博物館や、ひいてはコンビニの各種おにぎりの前で、迷わない人は居ないんじゃだろうか。"お財布を手に"(これがポイント)迷ってもらうことって、今や"販売"現場のテクニックのようにも見受けますよね。
 そういえばこうやって"迷うこと"を楽しんでいる時もあるし、"迷うこと"がとっても辛い時もある気がします。ボクの場合は、迷ったときは、なんとなく答えが出るまで待つことにしました。無理して出した答えは、たいてい失敗しちゃうのです。選んだ答えの先に何が待ち受けているのかについて、どこかで自ずと直感するまで、ボーッとするのがいいのかなって、思ったり。
 主体性という言葉があります。ジャズのアドリヴとは、いわば主体性。"おれ様"とと言い換えてもいい。ジャズがつまらなくなったのは、そのアドリヴに頼りすぎたから。その反省からか、アレンジに力を注ぐジャズが復権してきた。それが
ジャズのこの数十年、というのがボクの分析です。アレンジとは他者の介在、あるいは客観ですね。このお話、いかがですか?
 
さてまた次回、話はどう転びますか。楽しみに待たせてください。
 
(大江田)


|1 | 2 | 3 |

▲このページのTOP  
▲Quarterly Magazine Hi-Fi index Page