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第5回 第2回演奏会パンフレットより
「鈴木先生との出会い」

ポルタビアンカが鈴木静一先生の処女作である組曲「山の印象」を取り上げるにあたり、中央大学マンドリン倶楽部が鈴木先生に急接近をした1968年から1971年頃の3年間にわたる出会いと思い出を書き述べます。

当時、中大では、鈴木先生の作品は数少ない邦人作品のひとつとして、先生の初期の頃の作品である「山の印象」「蝦夷」「スペイン第二組曲」などを取り上げてはいましたが、直接、曲つくりの指導を仰ぐことになったのは、第15回の演奏会で「スペイン第三組曲」を東京初演した時からです。しかしあくまで先生自身の曲に限った指導や助言の域を出ないものでした。

故鈴木静一先生
故鈴木静一先生
理工学部富坂校舎の一角にある音研練習場にお越し頂いたのは、秋も深まった10月の末頃だったでしょうか。学生の自力運営を旨とし、特別な指導者を持たない中大にとっては、作曲者自身が訪れるのは勿論初めてのことであり、とても新鮮な気持ちで迎えたものでした。陽が西に傾いた頃、英国風の帽子とコートに身を固めた先生が練習場に現れるや、入り口で片手を挙げ親しげに挨拶をして下さいました。  指揮台とコンマスのわずかな隙間の椅子に座って、外国製の吸い口が付いているとても長い煙草を燻らせて、黙って聴いておられました。

合奏場は緊張に包まれていましたが、先生は作曲者としてのイメージの違いがあっても指揮者の解釈を尊重して下さり、自ら曲を止めることは滅多にありませんでした。その代り座ったままで曲に合わせ両手を動かし曲想をつけていらっしゃるのです。それはまさしく指揮そのもの・・・部員は指揮者を見ながら同時に先生のサインも見ることになりました。

ひとたび合奏が始まると、部員は指揮者よりむしろ先生の動きに注意を払わざるを得ません。先生の動作で「今どう弾けば良いか?」の指示が出ているのを見落とさないためです。合奏が止まり指揮者が悩んでいると、先生は突然立ち上がり指揮棒をとって、その短いフレーズのみを振って下さいました。たしか指揮棒は縦への移動が少なく水平移動で流れるような特徴的な指揮振りでした。先生の意図する思いを読み取りたいと、部員は真剣に、そして食い入るようにその流れを見ていました。作曲者自身の要求が直接伝わる感動は勿論ですが、曲全体の構成をまとめるよりむしろ、先生の指導は作曲者として思い入れている部分を、熱いハートで弾いて欲しいと訴えるものでした。

練習の合間には各パートを巡回しながら気軽に声をかけ、部員に弾かせたり又は先生自身が楽器を取って弾いて下さいました。マンドラでは「北夷」の中間部、マンドチェロでは今回のプログラムの「山の印象」第一楽章のメロディを弾い下さいましたが、これも演奏技術の話に偏らず、常に“自己表現”を強調する熱っぽい指導でした。

この「スペイン第三組曲」での出会いがきっかけとなり、以降「樺太の旅より」「雪の造型」「受難のミサ」「北夷」と毎回先生の曲を取り上げてゆきました。そして“先生の曲を弾きたい”と言う部員の純粋な気持ちが統一した意見として盛り上がった結果、ついに第20回の記念演奏会に向けて、鈴木先生に記念曲を委嘱しようとの結論に達したのです。

1971年の年明け早々に幹部数人でお伺いし正式に作曲依頼を行い、快諾を頂きました。曲の構想が進んだ頃に先生から「中央大学の校歌を盛り込もう!」という提案となり、早々に校歌の譜面をお届けしました。

当時の中央大学の校歌は@ピアノ伴奏用の♭×2(変ロ長調)A定演用オリジナル校歌(ハ長調)B1968年頃に改作したスネアから始まる♯×4(ホ長調)の以上3種類のスコアーがありましたが、何としたことか?♯×4の譜面をお渡ししたことが…練習番号QからD.Sまでの…ドラとチェロにとって相当に辛い、あの三連譜の部分に至りました。学生にとって待望の曲が届いたのは定演の2ヶ月前の4月頃になってからと記憶していますが、先生が途中で筆を加えられたのは練習番号Gで現れるシューベルトの「鱒」のモチーフの部分のみでしょうか、完成度の高さに驚かされました。

完成に至った大学祝典曲「栄光への道」は、先生のご趣味の山歩きが曲想のヒントになっており、幾多の険しい山谷を経た後に最後に頂上を征する!というメッセージが託されています。

先生の曲に触れる度に「熱いハートで弾きなさい」と云われる姿を思い出します。

(1972年卒 北村眞一郎 高橋信男 記)

2003年9月29日更新



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