文京区富坂の中央大学音楽研究会会室に程近い文京公会堂。
1971年(昭和46年)5月29日(土)午後7時45分34秒、大ホールステージの緞帳が静かに上がった。
「オーーッ」……客席を埋めた尽くした聴衆から湧き起こったどよめきを、ステージ上の学生たちは
確かに身体全体で感じ取っていました。照明に照らし出されたステージには弦楽器群を始めとして木管楽器、
金管楽器(ホルン2/トロンボーン2)、そして様々な打楽器類がずらりと並んだ、優に100名を超す大編成
マンドリンオーケストラが出現していたのです。
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シルクロード |
A:「エッ無理だよ、関大と合同でシルクロードなんて!」
B:「いや、出来るよ。関大に協力してもらえばすごいことになるぜ。やろうよ」
A:「だって時期がもう遅いしサ、これから関大に話を持ちかけて承諾を得たとしても、譜面作ったり、
話を持ちかけた以上パー練だって合奏だってこっちから大阪まで行ってやらなきゃまとまらないよ」
B:「やればいいじゃん。やれるよ」
C:「………」
第19回定期演奏会を終え4年生を追い出して間もない頃、CUMC1972の幹部3人は翌春の第20回記念定期演奏会のことで、
鈴木静一先生に曲目についてのご意見を伺うべく代沢のご自宅に押しかけたのです。彼らとしては、20回/21回は
「失われた都」「火の山」をそれぞれのメインに選曲することを考えていましたが、先生の方から「関大と合同で
100人のオケが編成できるならシルクロードをやってみないか」と持ちかけられたのです。
解決しなければいけない問題はいろいろありましたが、いつまでも返事を渋っているわけにもゆかず、
その年も押しつまった頃、結局鈴木先生の意向を受けようということになり、同学年の同意を得、また関大も
快く協力を約束してくれましたので早速準備に取り掛かりました。
記録によれば当時のマネージャーであり、マンドセロトップの高橋氏が直前の春の合宿のため
に写譜したパート譜には1971年1月31日の日付がありました。
D:「サァミィーなぁ〜」(寒いなぁ〜)
E:「タバコ1本くれや」
F:「何時?」
G:「1時」
東海道線大垣駅、ホームのベンチに座り、乗り換えの列車を待っているのは言わずと知れた中大マンクラの
パートトップたち。関大との合同練習のための大阪行きである。
4月とは言え深夜の駅のホームはさすがに冷える。若く体力がある、とは言っても夜汽車での1泊3日の大阪行きは
かなりキツイ。北千里での合同練習を終え、その夜は関大部員の下宿へ分宿。
阪急千里線から乗り継ぎ十三駅近くの関大マンクラ行き付けの中華「aa」で、ニラとニンニクのたっぷり
入った餃子のもてなしが何よりも嬉しかった、と高橋氏は懐かしそうに語ってくれました。
また関大を東京に招くための経費の増加と、貧乏学生の集まりである中大生たちの大阪行きの費用捻出との間に
挟まって、辛い思いをした会計の北村氏の英断も忘れられません。
3月の春合宿から定期演奏会までの間に都合2回の大阪との往復、そして最後は千葉県岩井
海岸「前芝荘」での3泊4日の合同強化合宿。演奏会直前、どこまで曲が仕上がるか?
5月29日演奏会当日の早朝、岩井での合宿を打ち上げ、その足で即文京公会堂へと直行、そのまま本番という
限りなく危険極まりない強行日程を組んだのです。