第42回 合田香氏・前野一隆氏対談 「第6回演奏会を迎えて」
--今回、バルトークの『弦楽のためのディヴェルティメント』を演奏するにあたって、どういう経緯でこの曲を取り上げることになったのか、また、どういう姿勢でこの曲に取り組んできたのか、ということをお聞きできればと思うのですが。
前:バルトークじゃなくても良かったんですね。深さとか表現の幅があって、深さや幅を作り出す挑戦ができる、そういう曲がいいですね、というのが最初にあったんです。マンドリン合奏で馴染む曲、鈴木静一先生の曲とか、イタリアのマンドリンオリジナル曲とか、邦人の方が作った新しい曲とか・・・・・・、そういう曲を取り上げて、ポルタビアンカの色合いを出していくっていうのも、一つのやり方だけど、いわゆる一般的なクラシック音楽の中に、いい曲がたくさんあるので、その中からさっき言った深さや幅にチャレンジできるものはないかな、というのがありました。候補の中ではムソルグスキーの『展覧会の絵』をアレンジして、やってみるっていうのもありましたね。ただ、ポルタビアンカ自体が弦のオケなので、派手で煌びやかでエキストラを入れてっていうよりは、自分たちの中で作れるものがいいのではないか、ということになったんです。で、色々聴いてみて、マンドリンでどうかな、っていう話をしていく中で、合田さんからもありなんじゃないかという話になって。意外と馴染むかもね、みたいな。
合:ポルタビアンカは、中央大学マンドリン倶楽部のOB/OGが中心になっていることもあって、脈々と鈴木静一先生の曲をやってきた、ということがありますよね。それは、別の意味から言えば、鈴木静一節っていうのかな、鈴木先生の曲の喋り方、鈴木先生の曲の中にある律動感や言語感や躍動感に慣れているっていうことなんですね。鈴木先生は、マンドリン合奏のことを分かっていて、マンドリンで弾きやすいように曲を書いているけれども、それでも鈴木先生の曲を初めて弾いた人を見るとやっぱり、喋り方に違和感があるんです。バルトークも同じことだと思います。鈴木先生の喋り方、イタリアオリジナルの喋り方、ボッタキアリの喋り方、クラシックといわれるジャンルの喋り方、いろいろあるんですけど、ただ、バルトークの喋り方は、マンドリンで意外とやりやすいんじゃないかと。手が届かない、遥か向こうにあるものではない気がします。バルトークの曲の音の圧力とか勢いとかは、マンドリンでも表現できる気がしますね。
--マンドリンでやりやすい、っていうのは、具体的にはどういうところですか? 僕も同じ印象は持っているんですけど。
合:クラシック曲を演奏するとなると、バイオリンのために書かれているものをマンドリンで演奏するっていう、一種のフィルターがかかるわけですよね。その上で、バルトークはどうかっていう話になってくる。バイオリンの音色でこうやって紡ぐからいいっていうものを、マンドリンでトレモロをしながら紡いだときに、綺麗に繋がるときと繋がらないときがある。バルトークの曲ではどうかというと、バイオリンの音色や語法に擦り寄っていかなくては音楽にならない、ということにはならないんですね。バルトークの律動感や躍動感をとらえて、それをマンドリンで表現しなおすだけ。ちょっとややこしいけどわかります?
--わかるような気がします。
合:バイオリンのオーケストラのために書かれた曲をやるために、マンドリンの持っている素晴らしさを抑制して、バイオリンに歩み寄ることと違って、バルトークが持っている律動感とか言語感とか躍動感みたいなものを形として理解して、それを理解したら、マンドリンでそのまま表現できる、ということ。「ディヴェルティメント」では、それができる可能性がありますね。マンドリン合奏の中でバルトークを満喫できるっていう感じがある。
--逆にそういうのがマンドリンでやりにくい作曲家っていますか?
前:モーツァルト!
合:難しいねえ。確かにね。
前:いちばん難しいのは、拍が上に飛ばないところかなあ。モーツァルトってクラシックに詳しい人もそうでない人も、曲を聴くとモーツァルトって分かりますよね。バルトークは、「これがバルトークか」って分かる人はそういないと思うんですよ。みんながわかるモーツァルトの曲の感覚にマンドリンの奏法で到達するには、悲しくなるほど遠いなあと。バルトークの曲って、特に1楽章なんかそうなんだけど、割と日本人的っていうか下に掘っていく拍っていうか、ザクッザクッっていう感じがあるけど、逆にモーツァルトは、上に跳ね上がっていく感じがある。そこからして違う。
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