「 春の嵐 」
                                                     

 子供の反抗期に心をかき乱され、
アカンボの激しい行動に体は酷使され、
夫の未熟さに堪忍袋の緒が切れかかり、
雑多な仕事や人間関係に神経が切り刻まれても、
それでも、
ふと気づくと、
次の朝になっている。

 昨日までの息つく暇も無い忙しさが、
嘘のように消え去って、
まるで、春の嵐が跡形も無く冬を追いやってしまうように、
新しい季節が始まってしまう。

 春だ。

 いつもぼんやりしていて要領の悪い「小3の女子」だった私も、
気付けば、更に要領の悪い「小2男子」的な男と結婚し、
ヤツの尻ぬぐいをして回るような結婚生活を送るうち、
5人の子供に恵まれ、
ぬぐう尻が6つに増えても、
泣きながら、転びながら、狂いながら、怪我をしながら、
半べそかきかき生きてきた。

 それでも、いつも春は、やってきて、
私に笑顔を取り戻させてくれた。

 この春、次男が小学校を卒業する。

 「やんやんマン」だったアイツ。

 しょっちゅう喧嘩してあちこち謝りに回った日々

 とんでもない行動ばかりとって、ある意味有名人だった



 「こんなヤツもうイヤだ!」
と、何度も何度も思った強敵だったが、
いまや、アイツがいなければ、私は、生きていけない。

 もしかしたら、夫よりも親よりも、
今のアイツは、私に寄り添って生きていてくれる。

 アカンボを風呂に入れるのは、
中2の長男と次男が交代でやってくれているが、
長男が若干めんどくさそうにしているのに対して、
次男は、進んでアカンボの世話をしたがるし、
留守番を頼むと、アカンボをおんぶしながら宿題をしていたりもする。

 平成の時代にはおよそ似合わない、
昭和の匂いが漂う孝行息子、
それが今の次男の姿だ。

 もうすぐ卒業式だが、
式で母親たちがしくしく泣いている中で、
私は、会場中が引きまくるほど、
大声でほえてしまうかもしれない。
 それは、「号泣」などということばでは収まりきらない、
野獣の慟哭になってしまうかもしれない。

 2年前の長男の卒業式でも、
腹の底からこみ上げてくる、
「うお〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
という雄たけびを、両手で口を押さえて必死で抑えたっけ。

 自分の卒業式では、一度も泣いたこともないし、
お涙頂戴的なシーンでこそ、ドッチラケな気分になってしまい、
まったく泣けない人間だったのに、
いざその「重いスイッチ」が入ってしまうと、
人の3億倍位の勢いで泣き叫んでしまうのだ。


 「お子さんがたくさんいて大変ね」
と、人にしょっちゅう言われても、
よそと比べて我が家がどれ位大変なのか、
まったくわからないため、
「そうでもないですよ、3人も5人も変わりません」
と返事してきた。

 しかし、やっぱり、5人は大変かもしれない、と、最近思う。

 健康で屈託の無い5人の子供を、
健康で屈託のない親が育てるのだったら、
それほどでもないかもしれないが、
全員喘息持ちで、気難しい性格の5人を、
不器用で融通の利かない私が育てるのは、
やはり、大変だったのかもしれない。

 怪我や病気で毎日のように医者に駆け込むし、
連日誰かしらが怒って暴れているし、
友達にいじめられた、先生に怒られた、物を壊した、壊された、と、
何かしら揉め事がいっぺんにいくつも起こっている。

 それをひとつひとつ地道にさばきながら、
時に母子揃って総倒れになり、
時に全員で深い穴ぼこの底に転げ落ちたりしながら、
それでも泥だらけになって這い上がり、
全員を何とかここまで育ててきた。

 これは、もしかして、凄いことなのかもしれない。

 自己評価なんてするヒマなくここまで必死に生きてきたが、
ここいらでひとつ、
「おい私よ、よくやっているなあ」
と、自分をねぎらってやってもいいんじゃないか、という気になってきた。

 と、いうのも、先ほど、
アカンボをおんぶして四男を病院に連れて行こうとしたとき、
(あ〜あ、やんなっちゃうなあ)
と、心の隅でため息をついていたら、
近くに花などまったく無いのに、
物凄くいい花の香りが漂ってきたのだ。

 (ん?)

 ・・・・・・と、不思議に思って、
どこを見回しても花は無いし、
花の香りのするものなどまったく無かった。

 それなのに、まるで、自分の鼻先で、
優しく花を揺らされているような香りが、
確かにある。

 (なんで?)

 しかし、なぜ花の香りがするのかはわからないけれど、
その香りが何を意味しているのかは、
なぜか瞬時にわかった。

 (よくやった、おめでとう)

 という、誰かの想いが心の奥に
ダイレクトに伝わったのだ。

 どこのどなたかは知らないけれど、
きっと私の、この、
地べたを這いずるような努力を見ていてくれている人がいて、
今、ほめてくれたのだ、と、直感したのだった。

 幼い頃から、あまり口にはしなかったが、
勘の強いところはあった。
 最近は、心の奥の黒板に、
教訓のことばが、はっきりと文章で書き込まれることがよくある。

 不思議だなあ、と思うけれど、
当たり前のように毎日起こることなので、
もう慣れてしまった。

 今日も強い風が吹いている。
 四男は、昨夜吐いたので、
頭の怪我のこともあり、
念のため病院でCTスキャンの検査をしたが、
異常は、なかった。
 抜糸も2回目、8針目ともなれば、
余裕の笑顔だった。
 脳外科の先生に「えらかったね」と、飴玉をもらって、
ご機嫌で家路に着く。

 帰り道、信用金庫で8万円を下ろし、
その隣の銀行で7万円振り込み、帰宅。

 何気なくする、ひとつひとつの仕事が、
私を、家族を、育ててくれている。
 どんな困難も、
どんな病気も、怪我も、
どんなイヤになるような細かい作業も、
みんなみんな、
私を育てる先生なのだ。

 昨日できなかったことが、今日難なく出来るのは、
なんでもないことのようでいて、
実は、とても凄いことなのだ。

 大人になってからも、そういうことが日々続くということは、
とんでもなく成長している証拠ではないか。

 苦労を苦労とも思わず、
次の新しい教科書がきたのだと思おう。
 新しい学年になったのだ、と気付こう。

 ほら、また今年も、私は、
新しい春の風に吹かれ、何かから卒業し、
桜並木をくぐる新入生になったのだ。

 背中には、二宮金次郎ばりに、
薪代わりの卒業証書がいっぱい背負われている。


  (了)

(子だくさん)2007.3.6.あかじそ作