AUDI(アウディ)
AUDIは、1932年に結成されたアウト・ウニオンを構成する4社の中では、
スポーティ車を担っていた。
その思想、哲学は現在のAudi社にも脈々と受け継がれている。
創始者は、ホルヒ社を設立し、その自らが興した会社を追われる身となった
アウグスト・ホルヒ(1868年;ドイツ、ウイニンゲン生まれ)。
以下に略歴を示しておこう。
1909年:ホルヒは、自らが興した会社を追われ、『アウグスト・ホル
ヒ・アウトモビールヴェルケ有限会社』を設立
同年、旧ホルヒ社より新社名差し止め訴訟を起こされ敗訴
1910年:社名を『アウディ・オートモビールヴェルケ有限会社』に
改名
同年、最初のアウディ車であるTyp B10/28PSを
発表
1911年:ホルヒ操るTyp B10/28PSがオーストリア・アルペン・
トライアルで優勝
1912年:Typ B10/28PSの発展型、Typ C(35PS)を発表し、ア
ルペン・トライアルで入賞。1914年までに破竹の34連勝
を飾り、1925年まで発売される
1914年:第一次世界大戦が勃発
アウディ社は軍に接収され、民生車はストップ
1919年:ツイッカウの金属加工産業のストライキに巻き込まれる
が、唯一生産量を落とさずに乗り切る
1922年:新しいエンブレムを半球の地球に”1”を立てたもの(当ペ
ージトップの絵がそうです)に決定する
同年、Typ K14/50PS発表
1923年:ベルリン・オートショーで、アウディ初の6気筒エンジンを
搭載したTyp M18/70PSを発表
1925年:510万ライヒスマルクもの負債額を抱え込み、財政危機
に陥る
1928年:DKWによる支援を受け入れて傘下入りし、再生を果たす
1932年:ホルヒ、アウディ、DKW、ヴァンダラーとアウト・ウニオン
結成
数々の独創的なアイデアを持つホルヒではあったが、
こと経営手腕となるとお世辞にも誉められたものではなかった。レース活動ばかりに没頭する
ホルヒと役員達との間に衝突があり、やがてホルヒは自らが興した会社を去りゆく運命となった
のである。
1909年にホルヒ社を退社した彼は、直ちに同じツイッカウに『アウグスト・ホルヒ・アウトボミールヴェルケ有限会社』を
設立したが、旧ホルヒ社に社名が酷似して紛らわしいと訴えられ、社名変更を余儀なくされている。
ホルヒは友人の助言に基づき、自分の名前の『horch』がドイツ語の『聴く』の意味である『horchen』であることから、
ラテン語の『聴く』の意味である『audi』にしたことは、有名な逸話である。何故ラテン語かは...
新社名を『アウディ・オートモビールヴェルケ有限会社』にして再出発はしたものの、ちっぽけな
町工場の粋を脱していなかった。ただ、ホルヒの車の技術に対する並々ならぬ情熱に打たれ、旧ホルヒ社から
優秀な社員が数多く移籍してきたことは、やはり彼の人となりのなせる技でしょうか。
そういう状況下で、アウディ最初の車であるTyp B10/28PSが1910年に市場に送り出されるのであるが、
すばらしい出来映えであった。その証拠に、1911年に開催されたオーストリア・アルペン・トライアルに
ホルヒ自らドライブするTyp B10/28PSが優勝。また、1912年にはTyp B10/28PSの
発展型のTyp C(35PS)が、同じアルペン・トライアルで入賞する快挙を成し遂げたのだった。
これを期に、Typ Cは『アルペン・ジーガー(アルプスの覇者)』という異名をとり、市場で高い人気を博した。
結局、1914年までのアルペン・トライアルのレース活動で34連勝という金字塔を打ち立て、『アウディ』という
企業名と車名を一躍有名にし、ヨーロッパの自動車シーンに輝かしい1ページを記すこととなったのである。
さて、順風満帆のようにみえたアウデイ社ではあるが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、
軍によって工場が接収され、手投げ弾や、軽迫撃砲、クローラーの付いたトラクター、装甲車などを
作らされた。
戦後すぐの混乱期である1919年には、ツイッカウで金属加工業のストライキに巻き込まれという事態に遭ったりもするのである。
しかし、同業他社が混乱する戦後の復旧を見事に成し遂げ、1922年には新エンブレムを決めるための
コンテストが行われた。その結果、最高峰の、頂点の、を意味する『1』が選ばれ、半円球地球に『1』が立つ、
あの有名なエンブレムが誕生するのである。
ホルヒは既に経営の第一線からは退いていたものの、アドバイザーとして活躍の場を求めるのであった。
スポーティ路線から、旧ホルヒ社で成し得なかった大型高級車への転換である。
1923年に開催されたベルリン・オートショーで、アウディ初の6気筒エンジンを搭載したTyp M,18/70PSを発表した。
ただ値段もそうとうな額で投資に見合うだけの台数が売れず、多大な負債額を抱えることとなり、
1925年にDKWの支援を仰いだ。ラスムッセンの救いの手によりDKWの傘下ではあるが、再生の
道が開けたのである。
『アウディ』の名は残ったものの、中身はDKWそのもので、挙げ句の果てにプジョー製のエンジンを
積んだ車にアウディの冠をかぶせただけの、なんとも名門の名を汚されるような車を作らされ、
しばらくは茨の道を歩むことになる。
資本主義とはそういうものだ。
直列4気筒 2612cc 28ps/1800rpm
半楕円リーフ・スプリング
直列4気筒 3.5L 35ps/1800rpm
4段トランスミッション
直列4気筒 OHV 3.5L 50ps
アルミ製シリンダーブロック
直列6気筒 4655cc 70ps/3000rpm
アウディ初の6気筒エンジン搭載
7個のクランク・シャフト・ベアリング採用
直列8気筒 SV 4872cc 100ps
純粋なアウディ系列としては最後のモデル
直列8気筒 SV 5130cc 100ps/3000rpm
リッケンバッカー製エンジン搭載
直列4気筒 SV 1122cc 30ps
プジョー製エンジン搭載