シルバー・アロー伝説
シルバー・アロー伝説は、アウディの前身であるアウトウニオンの誕生とともに始まる。
1929年秋、アメリカ、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落した。いわゆる世界大恐慌である。
第一次世界大戦に敗れたドイツは、アメリカ経済の影響を受けて一時的には活況をおびていたが、
この大恐慌の波には逆らうことはできなかった。ドイツ自動車産業も例外ではなく、中小メーカーの
生き残るための模索が始まった。ドイツ、ザクセン州にその名を馳せていたDKW、ヴァンダラー、
ホルヒ、アウディの4社は、サクソニー国立銀行の呼びかけに応じて1932年に連合する。
これがアウトウニオンAGの誕生である。エンブレムは、4社連合であることから4つの輪、すなわち
『 Four Silver Rings 』に決められたのである。
アウトウニオンは知名度を上げるために1934年から開始される全く新しいグランプリ・レースに参加
すべく活動を開始する。ところが莫大な資金が必要とされるため、ナチス率いるアドルフ・ヒトラーに
支援を求めたのであった。
当時のヨーロッパのレースにおいてはフランス(プジョー)、イタリア(アルファロメオ、フィアット)
に完全に牛耳られており、アドルフ・ヒトラーはナチス名を上げるために国家威信をかけてメルセデスと
アウトウニオンに国家予算的額の援助を行った。ちなみにアウトウニオンは、45万マルクもの援助を
受けていた。
アウトウニオンのグランプリ・カーは、P−WAGEN(Porche-WAGEN)と呼ばれ、
1933年の半ばに3台のTyp Aがホルヒの工場にて制作が行われた。
翌1934年、ドイツ国内の一般公開の場で、いきなりアウトウニオン・チームのドライバーであるハンス・シュトゥックが、
時速250km/hと3つの世界記録を打ち立てた。
このTyp Aというマシンは、あの天才フェルディナンド・ポルシェ博士の設計であることは有名な
話で、今あるレーシング・カーのお手本となった代物である。
エンジンは、スーパーチャージャー付45度V型16気筒32バルブ4.35L 295hpをチューブラー・フレーム構造の
シャシーのミッド・シップ(本格的に採用したのはアウトウニオンが初めて)に搭載し、
フリクション・ショックアブソーバー付トーションバー・サスペンションを持つなど、革新技術の固まりであった。
上記エンジンには諸説あって、Audi公式書?にはDOHCとあるが、ある市販本には各シリダー1本づつのカムシャフトとあり、
またある本にはシングル・カムシャフトで32バルブを駆動させていたとある。
どれが本当であるのかは私にはわからないが、いずれにせよモンスター・マシンであったことには違いない。
このシルバー・アローは、ヒルクライムにおいて遺憾なく性能を発揮し、1934,1935年と連続してチャンピオン・シップを獲得した。 後にTyp Aは、BとCを経て、Dまで進化するのであった。
ヒルクライムでは強かったが、肝心のグランプリ・レースではメルセデスの後塵を拝している。
1934、1935年、メルセデスのW25にグランプリ・レースを席巻されてしまう。このW25は、直列8気筒32バルブ(ということは
気筒当たり4バルブだ)DOHC 3.4Lで他を圧倒していた。W25は、最終的に5.7LのW125へと進化し、650hp
という史上最強のグランプリ・カーであった。
ところがデータ値通りにはいかないのが世の常で、実際のサーキットでは無敵ではなかったのだ。
メルセデスの前に立ちはだかったのがアウトウニオンのTyp Cである。
このマシンは、V型16気筒32バルブ6L(6005.2cc)のエンジンが搭載され、1936年にベルント・ローゼマイヤーが
3つのヨーロッパ選手権を勝ち取るのである。
1937年には、ベルント・ローゼマイヤーの手によって、Typ C(すでにエンジンは520hpを達成していた)
で行われた記録更新週間に、時速406.3km/hを達成、併せて3つの新記録と17の国際記録を樹立している。
アウトウニオンに対抗するかのようにメルセデスもロード・テストを開始する。
これに対してアウトウニオンは、さらなる進化をとげたアヴス・レコード・カーを送り出す。本来の
市販車生産の一部を犠牲にしてまで投入されたそれは、Typ Cをベースに総アルミニウム・ボディを身にまとい、
V型16気筒6.3L 520hpを誇る流麗なマシンであった。
1938年1月28日、アウトバーン上でベルント・ローゼマイヤーが、車による速度世界記録に挑戦すべく
午前11時46分に出撃、すると追い風にも助けられて車速はぐんぐんと伸び、ついに時速434.5km/hを達成!!
ところが悲劇が彼を待ち受けていた。幸運をもたらした追い風は、突如として悪魔へと変貌し、アヴス・レコード・カーを
宙へ舞い上がらせたのだ。まるで1999年のル・マンのメルセデスを見てるがごとく...
あわれアヴス・レコード・カーは、ローゼマイヤーを乗せたまま飛散するという大惨事を招いたのだ。なんたることか!!
アウトバーン、フランクフルト〜ダルムシュウタット間での出来事であった。
1938年からグランプリ・レースのレギュレーションが変更となり、スーパーチャージャー付は 3Lまでとなった。アウトウニオンのTyp Cは6Lを越えるため、活躍の場をグランプリからヒルクライムへと変更を余儀なくされた。 このマシンの駆動輪である後輪は、ダブル・タイヤ仕様であった。
新レギュレーションに合わせるために開発されたのがTyp Dである。
これは、V型12気筒3L(2984.9cc)2ステージ・ルーツ式スーパーチャージャー 485hpのエンジンを搭載していた。このエンジンは
結構変わっている。ポルシェ博士は既にアウトウニオンを去り(国家プロジェクトのもと『国民車=フォルクス・ワーゲン』計画に参画している)、
エベラン・フォン・エベルホルストを主任設計者として3カムシャフト方式を採用していたのだ。
左右バンクの外側に位置するエキゾースト・バルブはそれぞれ専用カムシャフトで駆動し、内側のインレット・バルブ用のカムシャフトは1本を
共有する形となっている。
ローゼマイヤーの悲劇により遅れた開発にも関わらず、2つのグランプリ・レースを制覇している。
シルバー・アロー健在だ。
しかし歴史は繰り返す。ヒトラー率いるナチス・ドイツは未曾有の、そして混沌とした破滅への道を選択したのだ。 アウトウニオンのグランプリ・レースのチャレンジは1939年をもって終了している。以後、暗くて長い 茨の道を歩むのであった。軍用車の生産へと...(1939年、第二次世界大戦勃発)
アウトウニオンによるシルバー・アロー伝説、たった7年ではあったが、最も輝いていた時期の1つでもあったのだ。