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Yasunari Morimotoの'Live Scraps'No.7

「神保町の春を愛す」

 
ずいぶん昔ですが、あの「盗まれた街(映画「ボディ・スナッチャー」の原作)」で知られるジャック・フィニィが書いた「ゲイルズバーグの春を愛す」という中編がありました。ファンタジー、それもいわゆるタイムスリップものなんですが、なかなか読ませます。
 ところでこの小説の主人公がタイム・トラベルをする方法、これがなかなか変わっている。
 「古い建物の中に入り、調度品ばかりでなく服装やお金もすべて昔のものをそろえて身につける」。すると「その部屋で一晩寝た翌朝には寝る前に聞こえていた車の騒音が馬車の音に変わっている」って寸法です。
 まぁファンタジーですから「そこが芝居でさぁ」という域を出ないのですが、それでもフィニィの筆致でそれを不思議と思わせない説得力で読ませてうまい。僕の好きな一冊です。

 で、どうしてこんなことを書いたのかというと、どうもこのマガジンHi-Fiで松永さんの原稿を読んだり、お店に行ったりすると僕の頭の中が擬似的にタイムスリップしてしまうからなんですね。
 現に前回の原稿の話を大江田さんとしていたら自然と話が昔のことになって、神保町のあそこにはアレがあったのコレがあったのという話題になり、もう心は1970年でした。
 ダンガリーシャツかチェックのネルシャツを着て、もちろんジーンズ。ワークブーツをはいてランチコートを着たら、大きめの鞄にラジカセを入れ、ヘッドホンではなくイヤホンでマナサスかN.ヤングあたりを聴きながら神保町を歩く。小学館の前から水道橋に向かってまっすぐ。救世軍の角を左へ曲がって、その先の右側に東洋キネマが見えたら、もうあなたがいるのは1973年です。一度お試しを。あ、クレジットカードは使えないので注意してくださいね。
 というわけで今回は特別編。昔の神保町のお話です。          


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 話は前回よりさかのぼる1967年、僕が小学6年の6月のこと。その年の春に大学生となった8歳違いの兄が、誕生日のプレゼトだといって後楽園シネマへ連れて行ってくれた。小学生の僕にプレスリー、PP&Mやキングストン・トリオにブラザース・フォアなどを教えてくれた兄だ。
 後に隣の後楽園ホールでボニー・タイラーのコンサートを観ることになるその映画館では、「黄金の7人」と「ファントマ電光石火」の二本立てを観た。どちらもフランスのコメディ・アクション映画ですこぶる面白く、おそらく兄は自分が通う大学から近いという理由でこの映画館を選んだにすぎないと思うのだが、このチョイスは偶然にせよけっこう後まで尾をひいて、結局「黄金の7人」シリーズは全部観ることになる。が、それはさておき。

 兄は映画館を出ると白山通りをまっすぐに進み、神保町の交差点を左へ折れて駿河台下を過ぎると右側、フレーベル館という出版社の並びにあった一件の店へ入って「コレがここの名物なんだよ」といいながらアルミの容器に山盛りになった小倉アイスを注文した。でかかった。
 今ではああいう店は、ほとんどないかもしれない。間口一間ほどの小さな店で、入り口脇にガラスのケースがあり、それほど多くない見本が少しばかりほこりをかぶって並んでいる。
 白地に朱で店名が書かれた暖簾をくぐると、コンクリートうちっぱなしの床の上にスチールの椅子とテーブルが並んでいて、いなり寿司やかやくご飯に加えて、夏はアイスクリームとところてん、冬はおそらくおでんやしるこなどを出す、そういった手合いの店だった。
 ともかくその山盛りの小倉アイスを食べた日が、僕にとっての神保町へ足を踏み入れた最初の日だった。そしてそれから7年後に予備校生になった夏のある日には、地方から来たクラスメイトと一緒に、そこで「コレがここの名物なんだよ」といいながら小倉アイスを食べた。今回の神保町の話はこの年のことである。

 前回書いたように僕が通った予備校はお茶の水駅のそばにあった。
 高校時代は通学時にジーンズをはくことを親から禁じられていたが、予備校生となってからは、当時駒込にあった「摩耶」か渋谷の「マルセル」で買ったエドウィンのスリム・ジーンズをはき、JUNかVANのシャツを着た。その上にVネックのセーターを着て、襟にボアの付いた紺色のランチコートを羽織ると、「典型的な予備校生」ができあがった。ハイカットのスニーカーをはいて毎日お茶の水へ向かった。
 通い始めた春はもちろんほとんど授業には出なかったので、駿河台側に線路と並行した道にあった「レモン(画翠)」や、明治大学そばの「maxroad」といった喫茶店で時間をつぶし、午後になると駿河台をゆるゆる降りて行った。
 主な昼食は安かった予備校の学食のホットドッグだったが、フトコロに余裕のあるときはビアレストラン「ランチョン」裏の神保町一有名な天ぷら屋「いもや」で天ぷら定食を食べたり、神保町交差点近くの「梵」という喫茶店でサンドイッチを食べたりした。またある時は「いもや」のすぐ近くにあったパチンコ屋「宇宙会館」で予備校で一緒になった男から遊び方を教わり、タバコはここで調達した。
 が、本当の目的は本屋を徘徊することで、買う金はないのでお金が入った時のためにどこになんの本があるかを把握しようと、ひたすら歩いた。

 お茶の水から駿河台下へ向かって右側の道を降りていくと、明治大学を過ぎたあたりに斜め右へ切れ込む道がある。
 そこを入っていくと左側のビルの地下に、これもやはり兄の友人に連れて行ってもらった「赤いサラファン」というロシア料理屋があるのだが、そちらへは行かずまっすぐに降りる。
 靖国通りの信号を渡ると、正面に前回書いた森茉莉の本を買った三茶書房、並びに「科学書・辞書ほかはなし」ときっぱり(たしかそんなでしたよ)書かれた辞書専門店があり、そこから順に神保町交差点へ向かって攻めていった。
 なかでも繁く通ったのは、今はロッテリアとなった高山支店で、ここの入り口の棚には、今では夢のような話だが当時倒産した虫プロが出版したマンガの単行本がすべて一冊100円で売られていた。
 そこで数冊を購入してその日の消費を済ませると、金玉堂とレオ・マカラズヤ鞄店(ここの路地を左に曲がると、三省堂裏口の向かいに焼酎の店「兵六」があるのだがまだ早い)を左に見つつ数軒の書店をのぞき、書泉グランデに入って早川や創元のSF文庫新刊をチェック、値段を確認して小遣いの節約を期する。

 さて、グランデから路地を一本越えると、植草甚一ファンなら誰でも知っている小宮山書店がある。なぜファンなら誰でも知っているのかというと、ここが植草甚一氏の本「こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた」の表紙になっているからで、そのファンの端くれである僕などは、いまだにここへ入ると若干緊張する。
 もちろんこちらが勝手に緊張しているだけなので、なるべくそう悟られないようにしているのだが、入るとなにも買わずに出ることができない。したがって当時は店に入ることすらできず、店の前のワゴンだけをチェックしてさらに先へと向かった。
(つづく)         

●植草甚一さんの本「こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた」


●後の77年、その本に人づてに頼んでサインをしてもらった
(これはちょっと自慢)

 

 

●浪人の身だったために行けなかったタワー・オブ・パワーのコンサートチラシ


 

●当時短大生だった姉に連れて行ってもらったプリズムのコンサートチラシ



●まだフィルム・コンサートに行っている
ストーンズ「ワン・プラス・ワン」(監督:ジャン・リュック・ゴダール)のチラシ




盛本康成
 東京出身の40代と、ここまでは大江田と同じ。ものすごい数の外タレのコンサートを観てきた音楽ファン、とこれは足元にも及ばない。忙しい毎日なのに、今もうまく時間を作っては、コンサートに、芝居に、寄席にと足繁く通う。相変わらず歌舞伎観劇と落語にはご熱心。
 酒席通いもまんざらではないと見受けるものの、最近はかつての酒豪振りも影を潜めた様子。四季折々に季節ならではの理由を見つけ、酒の肴にしてしまうのは飲兵衛の酒癖。春はお酒の美味しい季節です。お互い体に気をつけましょ。
 数多くの雑誌でイラストを描いてます。くすっと笑いながらも、ちょっと苦い思いをにじませる彼のイラストを、お手元の雑誌に見つけて下さい。
(大)

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