ロッキン&ロマンス
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僕にとってロックするということはロマンス(妄想)するということと同じです。なおかつロッキン&ロマンス(Rockin' & Romance)は、頭文字がロックンロール(R&R)と一緒です。
今回の原稿は、フリーペイパー時代にも一度書いたことのあるものですが、今の気分で改めて書き直してみました。

 

第2回 ボブ・ディランとハワイ

 いきなり本筋とは関係ない話で恐縮だが、内田百間(正しくは門の中に月)の「二銭紀」(福武文庫「新・大貧帳」所収)という文章が好きだ。若き百間が、始めて親元を離れて一人旅をしたときに、使ってはならないと言われた「もしやという場合の金」で早々に衝動買いをし、挙げ句に帰りの旅費まで使い込み、生まれて初めて愛読の書を売ってお金に変えてようやく我が家に辿り着いた(その日の内に親から金をもらって、手放した本を新刊で買い戻す、というどうしようもないオチ付き)というあらすじの情けな〜い話だ。    百間の文章とは切っても切れない、貧乏から派生する金銭のやりくりがここからスタートしたという話。ここから、私財の売却や借金をひっくるめて称する「錬金術」が始まり、ほぼ一生を通して続いてゆく。ハイファイを訪れるお客さんの中にも、かなり思い当たるフシのある方も多いんじゃないだろうか。
 そして、その大らかさと言うか、図々しさと言うか、貧しても鈍しない姿勢を見習って(?)、僕も錬金術、すなわちレコードの売却をよくする者となった。
 ことにこの数年の個人的不況の際には、引田天功かデヴィッド・カッパーフィールドもかくや、というような鮮やかな錬金術にて処世を行ってきた。と書くと、何だか偉そうだが、手品にはタネがあるように、無から有がホイホイ産み出されるわけなどない。今や、ウチのレコード棚は強い横風など吹こうもんなら、パタンと倒れてしまうほどの痩せ細りようだ。
 だが、良い方に考えれば、30歳を迎えて、自分にとって本当に必要なものは何なのか?を問うているのだ、と開き直れないこともない。20代の内に付いた贅肉や脂肪を取り除いて、もう一度、無駄のない引き締まった身体を取り戻す。肉体的にはもう無理でも、せめてレコードだけは・・・。
 とは言うものの、しみじみ生き残りの強者レコードどもの背中を眺めてみると、何だか自分が落語の「火焔太鼓」に出てくるダメな古道具屋になった気分がしなくもない。「暗闇で見れば、由緒の深い書に見えなくもない今川焼の看板」とか「平清盛公のシビン」とか、何かそういうのばっかり残ってしまったような。これで、ススだらけの火焔太鼓でも出てきて、殿様から300両でお買いあげ!なあんてことは、どうやら起こりそうもない。
 あるとき、そんな棚をしみじみ眺めていたら、僕はボブ・ディランのレコードを1枚しか残していないことに気が付いた。
 『フリーホイーリン』や『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』は、とっくの昔に売り払っていた。名盤は手っ取り早くお金になるからだ。『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』や『ハード・レイン』のように、自分でもかなり好きだったはずのものまで手放している。きっと、金銭的に切羽詰まってるときに「好きだから」なんて気持が甘ったるい重荷に感じられて、売ってしまったのだ。

 というわけで、我が家にたった一枚だけ残ったボブ・ディランだが、これが『ナッシュビル・スカイライン』なのだった。

ナッシュビル・スカイライン

 1966年の2枚組『ブロンド・オン・ブロンド』で、本格的なナッシュビル録音を体験したボブ・ディラン。その後、重傷を負ったオートバイ事故、ザ・バンドとウッドストックで行った音楽合宿『ベースメント・テープス』セッションを経て、ディランはカントリーの代名詞のようなこの地、ナッシュビルを再び訪れる。エリア・コード615に発展してゆく名うてのミュージシャンたちに囲まれて、まずは『ジョン・ウェズリー・ハーディング』(68年)を制作。そして、異色のカントリー・アルバム『ナッシュビル・スカイライン』(68年)である。
 そこでは、ディランの苦虫をつぶしたようなダミ声は聴くことが出来ない。丸みを帯びた気色の悪い歌声で朗々と愛の歌を歌い、ジョニー・キャッシュと嬉しそうな顔をしてデュエットしている、ひとりのカントリー・マンがいる。ミュージシャンにとって、もっとも住み心地の良い街と言われ、腕の良い逸材を数多く抱えるナッシュビル。その打てば響くような心地よい魅力(毒気とも言う)に完全にあてられてしまったのだろうか。とにかく、ジャケットであんなに人の良さそうな顔をして笑うボブ・ディランは、他に見たことがない。
 そして、そんな笑顔のディランに僕が出会ったのは、数年前、ハワイのとある中古レコード店だった。

 ツアーに参加出来なくなった父親の代理で、半ば強制的に僕はハワイに連れて来られた。今から、8〜9年ほど前の話だ。大学を卒業出来なくてくすぶっていたその頃の僕は、俄然アンチ・ハワイだった。砂糖をまぶしすぎたショート・ケーキみたいなイメージにしか、この常夏の島は僕には映っていなかった。
 他のツアー客が、アラモアナ・ショッピング・センターで買い物したり、ワイキキ・ビーチで陽光を満喫して浜辺をたむろしたりするのを尻目に、僕はホノルルの内側へと、だらだらと汗を流しながらひたすら歩いていた。
 確かにこの道をまっすぐ行って、右に曲がれ、と言ったよな。 この街に(この島に)中古を扱うレコード・ショップって本当にあるのかな?
 タワー・レコードの兄ちゃんが教えてくれた道は、ワイキキ・ビーチを背に内陸へとどんどん歩いてゆくものだった。しばらく歩いていると、街はあからさまにさびれて、ぐうたらになってきた。アスファルトのひび割れには草がぼうぼう、スーパーマーケットは開店休業。ピーカン晴れの青い空ではなく、湿度の高く、雲の多い、移ろいやすいハワイの気候は、容赦なく僕を打ちのめした。
 こんなところまで来て、レコード買う意味なんてあるのかな? それよりも、いいレコードなんかあるのかな? 一緒のツアー客のみんなと泳いだり、ゴルフしたり、日光浴したり、免税品のお土産でも買ってたりすることって、どうして出来ないのかな? 
 ツアーのメンバーと話したりするのは苦痛では無かったけれど、20代前半の僕は「譲れないもの」を持ちたがる傾向にあり、実際のところ、間違いなく自分に酔っていた。
 灼熱の太陽に照らされるのなら日陰に逃げていればいい。しかし、空気全体から焙り出されるように苛まれながら歩くのは、逃げ場が無い。今の僕から見れば「いい気味だ!」ということになる。
 歩くこと1時間弱。ようやく、そのさびれたショップに到着した。看板も屋号も無い。四つ角の一角にただ建っているその店は、レコードだけでなく、ペイパーバックとお土産物も一緒に売っていた。海の家にあるようなプロペラ式の扇風機が、唯一のBGMとして天井でカタカタ音を立てて回っていた。
 ふと気が付くと、値札というものが無い。すると、棚の上部に、
「All = 2.98$ Double = 4.98$」
 と書いてある。何て判りやすい! そして、安い! お、ビーチボーイズの『20/20』や『スマイリー・スマイル』! そりゃあ、リゾートで聴く気しないよな。などと、一喜一憂モードに突入しようとしたそのとき。 
 いきなり底抜けの笑顔で、ボブ・ディランが僕に挨拶してきたのは、まさにそのときだった。

 持って生まれたはずの歌い方を変えてしまうほどに激しく傾倒したカントリー路線だったが、ディランは1枚限りであっさりとこの路線を見限った。その理由とか意義とか僕は全然知らないし、どうでもいい。だけど、そのとき、ハワイでビーチボーイを気取ることが出来ず、結局、レコード屋に来ている駄目な男に、ディランは確かにこう挨拶した。
 「俺も結局ナッシュビルには居られなかった。お前もビーチには向いてなかった。だけど、こうしてハワイで会えたんだからいいじゃないか。オレとお前の笑顔は一緒だよ」

 『ナッシュビル・スカイライン』を手に取って、これもそろそろ売るべきかと悩んだのは一度や二度じゃない。でも、そのたびにハワイでのあまりに印象的な出会いを思い出して、思いとどまってしまう。むしろ、この2年ほど、夏になると必ず、このアルバムを聴くようになった。
 今なら、僕は結婚もしたし、リゾートとしてのハワイをきっと受け入れるだろう。カラパナだって愛聴してるし。ビーチで泳いでしまったりもするだろう。この歳になって青臭く突っ張っていても救いの論理になんかなりっこないし、だいいち祝福されなかった笑顔なんてもうたくさん。
 しかし、そんな大人になったフリをした背伸びを突き放すように、あのときビーチを逃げ出した僕の情けなさを封印したまま、ディランは相変わらず笑っている。僕にとっては、このアルバムはカントリー・ロックどころの存在じゃ無い。「I Threw It All Away」にセミの鳴き声を重ねながら、今年も何も捨て去れなかった僕を揺さぶっているのだ。


※本文中に出てくるレコード・ショップは実在したものですが、名前や正確な場所は忘れてしまったし、現存しているかどうかも知りません。いつか、もう一度行って、確かめたいと思っています。



 



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