ロッキン&ロマンス

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 第8回

 この文章は『ニルソン・シングス・ニューマン』にボーナス・トラックを収録 してブッダ・レコードからCD化された際(2000年)に付いていた英文ライナーを 僕が訳したものだ。この年の秋、僕は仕事が無く、いっちょ我流で翻訳家でもやってみるか、といういい加減な気持ちと、昔から大好きだけどとても向き合って 聴いていられないやるせない気持ちにさせられるこのアルバムについて、どんなことが書いてあるのか気になった、という割と真面目な、僕にしては“ライタ ー”らしい動機からだった。
 これをちょっとした縁で読んでくれた鈴木惣一郎さんが、わざわざ電話をかけてきて褒めてくれた。だからどうした、という感じもするが、事務的な翻訳で も、変に“ロック”な翻訳でも無い、何だか自分らしい訳文が出来た気がして今でも気にいっている。
 今回、身の回りがバタバタしていて時間も無いので、それを読んでいただいてお茶濁しさせていただく。もちろん、『ニルソン・シングス・ニューマン』のことが少しでも気になっている人なら、面白く読んでもらえる内容なのは保証する。
 また、これを機会に、マガジン・ハイファイをそういう場所として使ってもらって、いろんな人が自分の言葉で翻訳に挑戦してみるのも面白いんじゃないか、 と本気で思っている。

 松永良平

ハリーの堕落
カーティス・アームストロング

 ニルソンの1969年の名作『ハリー・ニルソンの肖像(Harry)』のセッションは、 ランディ・ニューマンの「サイモン・スミスと踊る熊」の素晴らしいカヴァーで、軽やかに終わりを告げた。後で判ったことだが、そこには二重の意味があった。ひとつ は、ハリーの60年代後期を飾った三部作(『パンディモニアム・シャドウ・ショウ』 『空中バレエ』『ハリー・ニルソンの肖像』)の気まぐれな終幕。もうひとつは彼の次なるプロジェクトの幕開け。そう、『ニルソン・シングス・ニューマン』の。

 『ハリー…』が完成して、大掛かりなコンセプトを持った次なる作品(『オブリオ の不思議な旅(The Point)』)がその姿をぼんやりと現そうとしていた。しかし、 おそらくこの段階では、まず彼の頭にあったのは、ソングブック・アルバムを一枚作 るということだった。彼の簡単なリストには2人しか候補者の名前が無かった。ロー ラ・ニーロ。そして、ランディ・ニューマン。

 ハリーは、彼がその才能を認めているのに、まだ一般的には評価されていない人々を称える彼のパンテオン(神殿)に祀ってある2人の作品を世に問うことに熱中していた。そこでは、最初はニーロもニューマンも同等だった。いみじくも、この3人のカルト・アーティストたちの名前は、かつて一度結びつけられていたことがある。

「ザ・ニルソン・ニューマン・ニーロ・ネイバーフッド」という名のミュージカル・ レビューが行われると予告する記事が出たことがあったのだ。この企画について、ハー ラン・クリーンマンという記者による「新しさを予約するミュージカル」という記事が一本存在しているのだが、期待されたこのショウは結局、実現はしていない。しか し、ニューマンの音楽に魅せられていたニルソンの気持は、どうにも否定しようがなかった。数々のインタビューで、彼はニューマンを「アメリカでもっとも文学的な作曲家」と称えていた。ハリーの最初の妻であり、このアルバムの制作に歌わないメンバーとして関わったダイアン・ニルソンは言う。「ハリーはランディと彼の音楽に畏れおののくくらい夢中だったわ」。1977年、BBCラジオのスチュアート・グランディ によるインタビューではハリー自身は少し違った意見も付け加えている。「僕があの レコードを作ったのは、あのときあれこそが録音されるべき最良の歌たちなんだ、って強く意識していたからなんだけど……、そうだな、誰か他の作曲家の曲ばかり歌うアルバムってユニークだし、やってみたら面白いんじゃないかな、って。それならすぐに出来ると思ったし。そうはいかなかったけどね(笑)。ま、僕はすごく堕落して たってことで……」

 ここで行われたのは根本的に異なったバックグラウンドを持つ2人の男の協力関係。 ブルックリン生まれのニルソンは、辛い思い出ばかりで、ヤセ我慢の日々が続く、拠り所のない少年時代を過ごした。一方、LA生まれのニューマンは、ルイジアナにルー ツを持つ偉大なるニューマン一族(映画音楽家のアルフレッド・ニューマン、エミール・ニューマン、ライオネル・ニューマンはみんな彼の伯父にあたる)の子孫だ。そしてニューマンは、彼らの多様な個性と音楽的財産を共有した結果である、荒々しい知性と、時として猛烈な皮肉と、アメリカ音楽のすべてへの百科事典的な知識と敬愛、 さらには度を超した観察力と、小説一冊分のストーリーを3分間のポップ・ソングに まとめあげてしまう薄気味悪いほどに卓越した作曲能力の持ち主だった。

 このアルバムに選ばれた曲は、ランディに言わせると彼の作品の中でも“ナイス・ ガイ”ソングに焦点が当てられているようだ。1969年8月20日、ハリーとランディは ベーシック・トラック録りを始めた。「カウボーイ」「ヴァイン・ストリート」そし て「スノウ」はこの日のうちに録音された。(「スノウ」と「リンダ」は8月27日に も録音されたのだが、何故かこのアルバムから外された。「スノウ」のファースト・ ヴァージョンはこのCDにボーナス・トラックとして収録されている。「リンダ」は多分、失われてしまった。)この最初のセッションの後、ハリーは少しの間『オブリオ …』のレコーディングに戻り、「ライフ・ライン」を28日に録音した。しかし『ニル ソン・シングス・ニューマン』では、最初のセッションからレコーディング終了(9 月25日に録音された「デイトン、オハイオ」「キャロライン」「イエロー・マン」) まで、ほとんどの時間はリハーサルに費やされていた。ニューマンにとっては、これは辛い体験だった。とにかく彼にとって、スタジオにいるのは気持の良い時間では無かった。新しく書き下ろした「イエロー・マン」と、明らかにニルソンを意識して書かれた「キャロライン」を除けば、ランディにとってここで用意された曲は、もう色 褪せたニュースのようなものだった。「ラヴ・ストーリー」「リヴィング・ウィズ・ ユー」「ソー・ロング・ダッド」「リンダ」「カウボーイ」に「ビーハイヴ・ステイ ト」。これらはみな1968年の彼のデビュー・アルバムに収録されているものだ。これをまたリハーサルすることに労力を費やすのは、このレコーディングに対するランディ の志気を消耗させていた。しかし、ハリーはレコーディングする前にこれらの曲を完 璧に我が物としておきたかった。「僕にはそうしなくちゃならなかった」。ニルソンは言った。「ランディは作曲者だからあらかじめ曲の何たるかを知っている。僕には、 彼とは正反対の側からレパートリーの意味を知る必要があったんだ」。

 ランディにはおそらく永遠にすら感じられただろう一ヶ月が過ぎ、ベーシック・ト ラックは完成。ハリーとダイアンによってサンフランシスコのウォーリー・ハイダー・ スタジオでオーヴァー・ダブが行われた。ハリーにとって『ニルソン・シングス・ニ ューマン』を制作するにあたってのヴィジョンは、最高に手の込んだやり方による繊細なシンプルさ、それを実現させることにあった。オーケストラの代わりに----これらの曲に対するランディの解釈をはっきりとさせるためにも----ハリーがアルバム全 体をオーケストレーションするつもりだったのだ。それも、彼のヴォーカルだけを使っ て。彼は取りつかれたようなエネルギーで、数週間のオーヴァーダブに没頭した。 「楽しかったわよ」。ダイアンは思い出す。「スタジオは遊び場みたいだった。RCA での他のアルバムのときはいつも時間の制約があったし。他のミュージシャンとかプ ロデューーサーとかのスケジュールもね……。ウォーリー・ハイダーでは、すごく雰囲気も良かった。ハリーとエンジニアと私しかいない。信じられないくらい仲良くな れたの。彼にとっても、今まであんなに楽しくやれたことって無かったと思うわ。まるで家族みたいだったんですもの」。ヴォーカルのオーヴァー・ダブ(ある統計によ ると、アルバム中で118回)に加え、ハリーは楽器パートも足していった。パーカッ ション、タック・ピアノ、オルガン、ギター、----「かたちになるまで6週間くらい かかったかしら」と、ダイアン。ハリーの若い従妹のダグ・フーファーはこのマラソン・オーヴァー・ダブ・セッションの同席した日のことをよく覚えている。疲れ知らずのニルソンは3人のエンジニアを交替制にして使っていたのだ。「とにかく止めないんだもの」。ダイアンは言った。「発明オタクが自由を獲得した、みたいな感じ」。 ジョン・バリーの「真夜中のカウボーイのテーマ」から「カウボーイ」に流れ込むう まい仕掛けのイントロはダイアンの提案だった。ハリーはこのアルバムを彼女に捧げ ている。

 この30周年記念の再発盤では、先述したように長い間聴くことの出来なかった「スノウ」、そして、アルバムに収められている曲のドラマチックな別ヴァージョンをい くつか収録している。「ラヴ・ストーリー」は、ランディのピアノを伴奏に歌われた ハリーのオリジナルの生歌。「カウボーイ」「アイル・ビー・ホーム」「リヴィング・ ウィズアウト・ユー」は、後のオーヴァー・ダブを取り除いたヴァージョン。オリジナル・ヴァージョンにミックスされていた要素を抜いて原型に修復している。結果的 に、かなり違った印象を受けるし、より曲そのものに近づいた解釈が出来ると思う。

 『ニルソン・シングス・ニューマン』は、ハリーがリリースしたアルバムの中でも、 かなりの賞賛を受けたもののひとつだ。ステレオ・レビュー誌ではアルバム・オブ・ ザ・イヤーにも選ばれた。今日でもまったく古びていないし、非凡で影響力のある作 品集であり続けている----ニルソンの傑作のうちの一枚であることはもちろん----に も関わらず、このアルバムがチャートにランクされたことは一度も無い。NMEでのキー ス・アルトハムとのインタビューで、ランディは当時、このアルバムがどう受け止められたかについて、こんな例え話をしている。「LAでのこのアルバムの売れ行きが気 になって、レコード・ショップに行ったんだ。店員が近づいてきて、何をお探しです か?って訊いてきた。『ああ、探してるのがあるんだ』。僕は言った。『この店にはニルソンのアルバムはあるかい?』。そしたらさ、彼は全部のアルバムを持ち出して、 一枚一枚僕に説明するんだよ。どれもすごく売れてます、って。これもオススメです、 あれもオススメです、って。ところが『ニルソン・シングス・ニューマン』の番になっ たらさ、彼はこう言ったんだよ。『これはね、彼をこの世界から抹殺しかけたレコー ドなんですよ』って」。



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