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ハイファイ大江田信のプロデュースで、リズム&ペンシル松永良平がお送りする新連載インタビュー企画。
そのとき、その場所で、誰が何を感じ、音楽はどう鳴っていたのか? その感激を紐解く作業は、決してオールドタイム・ノスタルジーだけじゃない何かを、今ここで再び伝えられるはずだ。
20世紀の音楽の現場を、見て、生きて、感じてきた人たちとの、予習無しのリアルタイム・トーク。ゆくゆくは日本版「ポップ・ヴォイス」を目指しますか、大江田さん?
何はともあれ「20世紀のことも知らないで、21世紀を生きるなんて遅れてる〜!」のハッタリでスタート!
第1回 水木まり
「ウッドストックとかじゃなくて、アメリカを歩いて、生活してみたかったの」
ファンの時代。古本で1960年代のミュージック・ライフやティーン・ビートを手にするたびに、そんな時代の力強さをうらやましく想う。後に調べた情報の正確さよりも、リアルタイムの興奮のいい加減さや、そのときの曖昧な記憶の方が、音楽の良さがよく伝わる。プロじゃない、と思われるかもしれないが、ファンであればこそ見えるものの方が、この音や情報の溢れかえり過ぎた時代には必要なんじゃないか、という想いが僕には強い。
水木まりさんは、60年代に湯川れい子さんに師事し、ロックがどんどん勢い付いてゆく60年代後半から70年代前半に音楽雑誌編集者を体験し、70年代の初めには女性一人で単身ロスに渡っている。どんなコワモテでやり手の方なのか、と思っていたら、小柄でキップが良くって、何よりも固い評論とか分析なんてお構いなしの、僕が憧れる「ファンの視点」をしっかり持ってらっしゃる方だった。興奮して早口になった挙げ句の脱線。肝心なことを忘れてしまった嘆息。記憶をじっくりと探る息継ぎ。当時を振り返ったミュージシャンのどんな詳しい回顧談よりも、僕にはそんな水木さんの話しっぷりがリアルで楽しかった。今となっては伝説の人名も多く登場するけれど、水木さんの口から短いセンテンスで語られる彼らは、今の僕なんかにも十分判るくらい活き活きとした存在感を持っている。
朝妻一郎氏、見知らぬ女子高生にピーター&ゴードンのチケットを渡す
松永:外国のテレビドラマとか、やっぱりすごく見てました?
水木:みんな私の年代の人は言うだろうけど
、あの頃(1960年代前半)は、憧れだったもんねー。すごく(アメリカ)に行きたいなあー、って思ったし。
松永:今の感覚からは想像つかないくらいアメリカに行くのって難しかったんですよね。
水木:すっごい遠いところだった。だから、太平洋の海に行くのが好きだったの。「いつかあっちへ行こう、あっちへ行こう」と思いながら(笑)。だから山より海へ行くのが好きだった(笑)。
あの頃「無銭旅行」って言葉が流行ってて、貨物船に乗って甲板洗ったりとか仕事しながらアメリカに行くっていうのを中学生のとき真剣に作文に書いたこともあるし(笑)。とにかくアメリカに思いきり憧れて、「赤毛のアン」も読んで(笑)。
高校2年の年にはビートルズが出てきて、映画(「ア・ハード・デイズ・ナイト」)が65年。それを見て………「やっぱり好きなことをやらなきゃダメだ!」って思ったの。「好きなことやることで、こんなに夢中になって、キラキラ輝いたり出来るんだ」って。じゃあ自分で今好きなことって何だろう?って考えたときに、ロックが好きだし、「これしかない!」って。まあミーハーで「ロックの仕事やったら会えるな 」っていう思いも少しはあったかな(笑)。
松永:それで、その直後には、もう湯川れい子さんのところへ………
水木:そう。当時、湯川先生はもう人気者で。ラジ関(ラジオ関東)で、福田一郎先生、星加ルミ子さん、湯川先生、木崎(義二)さんの全員が一緒に出てて、そこで直接洋楽の情報交換を「ああでもないこうでもない」ってやってる番組が土曜日か日曜日の夜にあったし。
松永:その当時のオールスターですね。
水木:そう。星加さんはもう(ミュージック)ライフの編集長だったし。
でも、湯川先生の連絡先や電話番号とか判んなくて。そしたら、たまたま国立に住んでた友達が、「駅前でタクシー拾う湯川さんを見た」って教えてくれて。で、国立の電話帳調べてもらったら、まだその頃は番号が出てたの。それで電話したら、お母様がお出になって「日曜日なら娘はいますから」っておっしゃって。それなら「ええい、電話よりも行っちまえ!」って日曜日、直接行っちゃったの(笑)。それで、直接お会いして、こういう(音楽の)仕事がしたいって思いを打ち明けたら、まだ高校3年生だったんだけど、オーケーしてくださって。そのときのワタシ、すごく緊張しちゃって、涙目になってたと思う、真剣だったもんね。
松永:湯川さんのもとに押し掛けたのが65年の夏・・・ということは、もう翌年の6月には………。
水木:そう! そうなのよ、来たのよ。ビートルズ(笑)
あのときは武道館の南側がステージだったのね。で、西側の席で、ジョンの方から見たんだけど。リンゴのドラムを見て、ドラムってすごいんだなあ、って思った。でも、ちっちゃかったけどね。ステージも小さかったし。アリーナも誰もいないし。
松永:え? アリーナ誰もいないんですか?
水木:入れない、入れない。あそこに椅子を入れて、人を入れるなんで発想が無かったのよね。何たって、初めてだったし。それに、そこに人がいなくったって、今までのコンサート会場に比べたらめちゃデカいわけだから、見てるときはそんなアリーナのこととか考えてもいなかったと思う。
松永:前座のドリフのこととか覚えてます?
水木:出てたのよねー。でも、ほとんど何も覚えてない。
松永:ビートルズのことでアタマが一杯で?
水木:いや、一応、湯川先生のところで一緒に働いてた女の子と一緒に、そんなにはしゃがないで見てるつもりだったんだけど。でも「ベイビーズ・イン・ブラック」やったときは、もう嬉しくって、一緒に歌っちゃってね(笑)いつも、彼女と一緒に歌ってた曲だったから。
でも、私が初めて見た洋楽のコンサートって、ピーターとゴードンなのね。まだ湯川先生と知り合ってない頃で。これが何故かって言うとね。高崎一郎さんの洋楽の番組があって、それがリスナーがスタジオに行ける番組だったの。そこに友達が行けることになって、で、私が洋楽好きなこと知ってるから誘ってくれたの。
有楽町のニッポン放送行って、廊下で待ってたのよ。そしたら、ある人が部屋から出てきて、「あれが高崎一郎さんかしら?」って話してたら、その人がツカツカツカッってアタシのところに歩いてきてね。
「キミ、ピーターとゴードンのコンサートがこれからあるんだけど、僕行けないから、これで見にいかい?」って突然(笑)。
で、「行きますっっっ!!!」って。彼女には悪かったけどね(笑)。後で判ったんだけど、何とその人は朝妻一郎さんだったの。その頃顔なんか知らないから(笑)。後に朝妻さんを知ってから、「実はあれ私だったんです。ありがとうございました」ってお礼した(笑)。あんまり覚えてなかったけど。
桜井ユタカ氏、オーティス・レディングの死に号泣する
松永:ビートルズが来日したあたりから、ロックの流れって変わって行きますよね。クリームとかが出てきて、サイケとか。
水木:67、8年位から、集英社で「ヤング・ミュージック」って雑誌が出来て、私そこの編集部に入るんですよ。2年くらい出してたのかな。そこに、桜井ユタカさんが入ってきて。そこで一緒に仕事して、そのときに黒人音楽をすごく勉強させてもらったの。
あの頃、ソニーのテープレコーダーのちっちゃいの(オープンリールじゃなく、現在のカセット・テープ)が出来たばっかりの頃で、あの人、それを持ってきてしょっちゅう聴いてたの。しゃべってても原稿書いててもガンガン鳴らしっ放し(笑)パッパッと仕事して「サイナラー!」って素早く帰っちゃう人でね。「これイイよ」とか、いろいろ聴かせてくれて。それまでもモータウンとかヒット曲は知ってたけど、影響されてすっごい好きになっちゃって。アトコ、アトランティック系のブルースやR&Bをずいぶん教えてもらった。オーティス(レディング)はもちろん、ソロモン・バークとかパーシー・スレッジとか、輸入盤を買ったね。オーティスが亡くなったとき、彼泣いてね。「ワーッ、すごく純粋な人なんだ」って、ワタシも感動しちゃった。
今ね、ロックを聴いて、これいいな、とか、これは好きじゃない、とか思うじゃない。その基準っていうのかな、好きとか嫌いとか判断するときに、黒人音楽を聴いていたことがすごく影響していると思うの。それが今になってよくわかってきて、ユタカさんにはとても感謝してる。
松永:ビートルズは?
水木:………あのねえ。ビートルズから入ったんだけどねえ、ある時期からビートルズのこと語れないの、ワタシ(笑)。「ア・ハード・デイズ・ナイト」止まりなのかもしれない(笑)。難しくなってきて、音楽的になってきて、なんてあたりからもう他の方にお譲りします(笑)。
それでも、60年代の終わりくらいは
イギリスのものは結構聴いてたんだけどね。石坂敬一くんの影響も結構あって。当時TBSで東芝の番組があって、その手伝いを私はやってたから、彼がよく来たの。だから、ジェフ・ベックとかあの辺に染まってた時期もある(笑)。
石坂さん、堤光生さん、コロムビアに居た高久光雄さん、この3人がホントに夜遅くまでよく売り込みやってたのよね。この3人、同い歳で仲良かったし。
松永:レコード会社も、これからロックを売ってゆく、っていう気分で盛り上がってた時期ですもんね。CBSソニーが出来たのが69年でしたっけ?
水木:(菅野)ヘッケルが(ソニーに)入った年なのよ、確か。高久さんが(ミッシェル)ポルナレフが売れると見込んコロムビアから一緒にソニーに移った年よね。
松永:で、「シェリーに口づけ」が大ヒットして、それは当たってたわけですね。へえー。神話時代ですね、僕には(笑)。
大江田:洋楽の華やかなりし頃ですよね。各ラジオ局にトップ10番組がそれぞれあって。パック(イン・ミュージック)やオールナイト・ニッポンが始まって。
小倉エージ氏、ニール・ヤングのレコードを貸してくれない
松永:アメリカに行くのは、いったいいつ頃、どんなきかっけだったんですか?
水木:まあ、子供のときからずっと「行きたい」っていう思いはあったでしょ。で、70年かな、「砂丘」っていう映画があったでしょ。アントニオーニの。
松永:ピンク・フロイドとかが音楽やってる。
水木:そうそうそう。あの映画見てねえ。「デス・ヴァレーに絶対行きたい」って思っちゃったの(笑)。あのオンボロ・カート運転して、リンゴかじりながらデス・ヴァレー行きたいって。
松永:じゃあ、ウッドストックとかじゃ全然無いんですねえ。
水木:ウッドストックは………だって、気付いたら終わってた(笑)。何か、そういう思いじゃなかったね。それよりも、アメリカに行きたい、アメリカの土地を踏んでみたい、歩いてみたい、そういう気持だった。いろんなコンサートを観たかったんじゃなくて、生活してみたかったの。
で、その後、「いちご白書」を見て。………ニール・ヤングに目覚めたの
松永:橋渡るところの「ヘルプレス」とか、いいですもんねえ。
水木:ねえ それで、ニール・ヤングすごくいいなあ、って思って。映画の「ウッドストック」見たときのCSNとか「何これ、このつまんないの」だったんだけど。「いちご白書」のニール・ヤングはすごい良くって。
その前にね、小倉エージさんに会ったときに、あの人がチョコチョコってやって来てね、「ねえ、ジェームス・テイラーって知ってる?」って言われたの。「何、それ。ジョニー・テイラーの間違いじゃないの?」(笑)ってそのときは思って。
松永:桜井ユタカさんの影響で(笑)。
水木:そうなのよー。だから、私、ジェームス・テイラーも知らなかった人なのね。でも、「いちご白書」見て、ニール・ヤングいいな、と思い始めてから、エージさんに「ニール・ヤングっていいわね。レコード貸して」って言ったら、「日本楽器に売ってるよ、新作の輸入盤が」って(笑)。
ケチーッ!(笑)そんな言い方ないじゃないかって思いつつ、買いに行って。そんとき買ったのが「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」。それで、すごい好きになって。
松永:じゃあ、デス・ヴァレーにも行きたいし、ニール・ヤングにも会いたいと思って、ついに渡米したわけですね。
水木:よし、行こう、と思ってから、1年くらい働いてお金を貯めて。免許証だけは取っといて、車が無いと生活出来ないと思ったし。居られるだけ居たいと思ったし。でも、英語の学校は何故か行ってないんだよねー(笑)。行きゃあ何とかなるさって(笑)。
で、千ドル持って、1年後にようやく。1971年の5月の・・・・あれ、何日だったかしら? 帰ってきたのは、4月11日って覚えてるんだけど(笑) ちょうど11ヶ月居たんだから………、あれ?………とにかく、5月アタマよ!(一同笑)あとでパスポート見よっと!
水木まり、1971年のロスを歩く
大江田:当時、1ドル=360円で、千ドルって、今の価値で言うと、どれくらいなんでしょう?
水木:あのねえ。200ドルで、一月生活しようと思えば出来たの。向こうでね。普通は最低400ドルくらいが、まあ「貧乏暮らし」ってレベルかな。でも私は200ドルで何とか(笑)「週刊明星」に原稿を書いていたロス在住の川崎さんっていう女性が、65ドルって部屋を見つけてくれて、それで200ドルでやっていったの。
松永:ロスに降り立って見て、最初の印象はどうだったんですか?
水木:やっぱり大きいし、広いし、そんで、歩いてる人がいない。残念ながらカリフォルニアの青い空も、そろそろスモッグが始まってた頃で、もうそんなでも無い時期だったのね。でも、私にはすごいキレイだったんだけど。まだ60年代のヒッピーの流れもあって、若い人たちはみんなそんな格好だし、どっかで会うと誰でもにっこり笑って「Hi」なんて言うような。
私が住んだのは、ウェスト・ハリウッドで治安も割と良かったし、ウィスキー(ア・ゴー・ゴー)も歩いて行けたし。エレクトラ・レコードが私の家の裏だったの。
松永:自分ん家の裏がエレクトラ・レコード!(笑)
大江田:UCLAのハリウッド側ってとこですよね。
水木:ハリウッド・ボウルが、家のすぐそばからバスでハリウッド通りに出て、そこから北の方に歩いて30分くらいのとこだったのかな。山の中でね。あそこは感動した。木に囲まれて星を見ながら、歌を聴くのよ。ああ、屋外でこんな会場があるのかって。当時はトゥリー・ピープルってのがいっぱい居て。
松永:トゥリー・ピープル?
水木:お金が無いから、外の木に登って見てる人。ステージからも、そんなお客さんたちに声かけたりして。あの頃は、コンサート行ってると、必ず例の「巻いたもの」が回ってきたしね。あと、テープレコーダーとかカメラも持ち込めたのよね。テープレコーダーなんて、こんなに大きいのよ。マイクをびーっと差し出してねえ。ユルかったのよねー。コンサート終わって外に出ると写真とか海賊盤を平気で売ってるし。私も随分買ったわ(笑)。
74年あたりくらいから、結構厳しくなったのよね。チェックされたりするようになったし。
松永:一番最初にアメリカで見たコンサートって覚えてます?
水木:………何だろう?トルバドールで、だったかな。有名なのじゃなかったかもしれない。
松永:トルバドールって、どんな感じの小屋なんですか?
水木:あのね、扉を入ると手前がバーになってて、そこがジャクソン・ブラウンの「レディ・オア・ノット」で歌われているところだと思う。で、そこを抜けてドアを開けるとステージ・フロアになってて、テーブルと椅子があって、あと2階があったのよね。みんなお客さんは呑みながら、食べながら。どんなものを見に来ても(笑)。あそこでは、やってる側もリラックスしてたし。
松永:ウィスキーやトルバドールのその頃の出演予定表見てみたいですよね。
水木:でしょう!? リストはすごいわよ。キャロル・キングから始まって、ランディ・ニューマンやその頃のシンガーソングライターとか、大江田くんが喜びそうなフォークシンガーとかねえ、ドオーッとあるんだけど。でもねえ、なってみるとねえ、結構違うのよ。キャンセルになったりして(笑)でも、出たけどね。いっぱい、いい人が。ジョン・スチュワートも見たし。クリス・クリストファスンのステージにカーリー・サイモンが出たり。
トルバドールは本当によく行ってた。リンダ・ロンシュタットとジャクソン・ブラウンも広告に載ってて。「ジャクソン・ブラウンって名前、何か聞いたことあるな」って思っててね。もうアサイラムからレコードは出してたと思うんだけど、何か聞いたことある名前だから、まあ、行ってみようと思って。そしたら、すごい良くってね。そのときはまったくギター一本だった。それから彼のオッカケを始めた。
マッケイブス・ギター・ショップってところでも彼のライブを見たことあって。すっごく狭いの。それこそ、20人くらいしか入らないところで、彼がある程度人気が出てから、「お世話になったから」ってことでライブをやったことがあって。
大江田:マッケイブスの隣の隣がタコマがあったとかって聞いたことありますけどね。マッケイブスとケーブルでつながってて、マッケイブスで演奏したのをタコマで録音したりするって。
ウィスキーはまた違った雰囲気を持ってたんですか?
水木:うん。ウィスキーはね、踊る場所があるから。
松永:オーティス・レディングもやってたりするから、もうちょっと勢いのある感じですか?
水木:そうね。それにウィスキーはね、日本の観光客も行ったりするようなとこなのよね。トルバドールは音楽ファンにしか知られてないんだけど。カメラぶら下げたお父さんたちとか来てね、すごい恥ずかしいときもあった。
アメリカが初めてやったのはウィスキーだったね。「サザン・マンやれ!」ってヤジが飛んで(笑)。そう言えば、レオ・セイヤーをトルバドールで見たときも、すっごいヤジ浴びて、可哀相だった。ピエロの格好して歌っててヒット曲もあった頃なんだけど、露骨にやられてね、泣くんじゃないか、と思ったくらいよ。彼らはイギリスから来てるし、地元びいきみたいなのもあったのかもね。
水木まり、さらに1971年のロスを歩く
松永:ニール・ヤングはどうなったんですか?
水木:これがねー………。見たことは見たんだけれど。「ジャーニー・スルー・ザ・パスト」か「タイム・フェイズ・アウェイ」の頃だったんだと思うの。やっと(この時が来た)と思って行ったの。(LA)フォーラムだったかな……? 席はステージの後ろだったしねえ、すんっごい良くないコンサートだったの。何か全然こうノレない。クロスビーとナッシュが紹介されて出てきて一緒に歌ったりもしたんだけど。彼はある時期から一部(前半)はソロでやるじゃない。でも、それも無かった。バンドもクレイジー・ホースでも無いし。すっごいガッカリしたの。結局、アメリカでは、いいニール・ヤングは残念ながら見られなかったし、デス・ヴァレーにも行ってない(笑)。
これは、もう一回行くって使命が常に残されてるってことだと自分では思ってるんですけど(笑)。
松永:他に、良くも悪くも印象に残ったのってありますか?
水木:ジョー・ウオルシュがいなくなった後のジェームス・ギャングを、券をもらって見に行ったら、その前座に出てたバンドがすっごく黒っぽくて良くてね。ジェームス・ギャングはつまんなかったんだけど。入るときにちらっと看板で名前は見たんだけども、ぱっと見て読めなかったし、確かめもしなかったの。お客に訊いたら「ジョン何とかバンド」って言ってて。そんな名前書いてあったかな?って思ったけど、「ふーん」って思って納得してて。でもね、日本に帰ってきてから、ある日、J・ガイルズ・バンド聴いて思い出したの。あれだったんじゃないかって それを未だに確かめられないでいるんだけど、絶対そうだったと信じてるの。すっごい良かったのよ。
松永:そりゃあ、あの頃の(デビュー仕立ての)J・ガイルズ・バンドだったら、イキも良くて最高ですよ。
水木:私はそう信じてるのよ(笑)。あのGEILSって綴りがぱっと見て読めなかったんだって。だから、あれが
J・ガイルズ・バンドじゃなくって、まだ埋もれてるんだったらもったいないなー、って(笑)。
大江田:あと、エリック・アンダーソンの家に行ったって話もありましたよね。
水木:うん。ビターエンド・ウエストで一週間彼が出てたのの最後の日曜日に知って、見に行ったの。
大江田:ニューヨークのビターエンドのウエストがあったんですか?
水木:あったの。アシュグローブってのもあったわ。あれはブルースとかフォークとかをやってた。ビターエンド・ウエストは多分、あれから間もなくしてなくなっちゃったと思うんだけど。お客もまばらでね。前座がね、「ビーバップ・ア・ルーラ」の………、足の悪い人。
松永:ジーン・ヴィンセント!
水木:そうそう。確か彼が前座でね。そのときはリタ・クーリッジもそこに居て、エリックと二人で「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」歌ったの。
で、エリックに英語も出来なかったのに、会う約束取り付けて、彼の家に行ったの。ヴェニス地区っていう、海水浴場が近くて、あんまりお金のないアーティストとかがよくいるところなんだけど、すごい小さなコミューンみたいなところの小さな家に彼は居て。一緒にお酒呑んで、あの人の赤ん坊の一歳の誕生日の記念写真に一緒に私が写ったりして(笑)。
ちょうど「ブルー・リヴァー」を録音し終わったところでね、お金は無かったのよ。あれが売れて、多少は入ったかもしれないけどね。
大江田:ビーチボーイズとかは行かなかったんですか?
水木:
ビーチボーイズはねえ、当時はやってなかったわよ。スタジオから出てきたところのデニス・ウィルソンは見かけたことある。何か楽器そばにおいてててねえ、車待ってたのかもしれない。
松永:へええええええええええーー。きっといっぱい街でミュージシャンとか見てるんですよ。
大江田:あの頃、ロスにはいっぱいレコード会社ありましたしね。
水木:リッキー・ネルソン見かけたときはね、目がぱっと合って、私も「あっ!」という顔をしたと思うの。そしたら向こうもね、「ほら何か言っておいでよ」みたいな顔だったんだけど、結局何も言えず(笑)「はあーっ(残念)」て感じだった。
大江田:彼は70年代に良いシンガーソングライター・アルバムを出してますよね。
水木:レオン・ラッセルも見たよ。誰かのコンサート行ったときに、客として来てた。ゲストで出たかもしれないけど、覚えてない。
松永:あの頃のオーラ出しまくりのレオンが客席にいたら目立ちますよね。
水木:素敵よお��。ほんとに真っ白でさ、銀髪で鋭い顔立ちで、すっごい素敵だった。
松永:永住とかは考えなかったんですか?
水木:アタシね、「行こう!」と思ったときも早かったんだけど、「あ、帰ろう」って思ったときも早かったの(笑)。ホームシックとかも無かったんだけどね(笑)。何となく。
松永:71年にアメリカに行ったことは、やっぱり良かったと思いますか?
水木:うん。ギリギリだったな、と。
松永:あと1年遅かったら、ジャクソン・ブラウンだってスターになってたろうし。全然環境も状況も違っちゃってたでしょうしね。でも、そのギリギリのタイミングを狙ってたんじゃなくて、思いつきだったんですもんね。
水木:(笑)自分の時代のギリギリに間に合って行ったかなあ、って。それはよかったって思うね。
(6月29日 渋谷Les Jeuxにて収録 / 構成:松永良平)
水木まり
ヒロさん、ありがとう。僕らはついニック・ネームのヒロで彼女を呼んでしまう。東京都出身。高校生と大学生の2人の息子を持ち、元気に母親業をこなしながら、訳詞、音楽原稿の執筆、音楽番組構成、翻訳などを続けておられる。素晴らしいエネルギーの持ち主。訳書に「ニール・ヤング 孤独の旅路」(大栄出版)、「メイキング・オブ・サージェント・ペパー」(キネマ旬報社)など。すべては本文にある通りなので、特につけ加えることなどないが、そういえば「あの母のバイタリティには敬服します」と、息子さんがおっしゃてました。(大)
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