20世紀に連れてって

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ハイファイ大江田信のプロデュースで、リズム&ペンシル松永良平がお送りする新連載インタビュー企画 第3弾。
そのとき、その場所で、誰が何を感じ、音楽はどう鳴っていたのか? その感激を紐解く作業は、決してオールドタイム・ノスタルジーだけじゃない何かを、今ここで再び伝えられるはずだ。
20世紀の音楽の現場を、見て、生きて、感じてきた人たちとの、予習無しのリアルタイム・トーク。ゆくゆくは日本版「ポップ・ヴォイス」を目指しますか、大江田さん?
何はともあれ「20世紀のことも知らないで、21世紀を生きるなんて遅れてる〜!」のハッタリがモットー!



第3回 山本隆士
「いろんなことやりすぎてるんだよ、俺」

 大江田さんが僕に要求してくることは、だいたいひとつだけ。「予習はなるべくしないでください」。というわけで、今回もまたもや鼻垂れ小僧同然のチンプンカンプン状態で臨みます。
 今回は山本隆士さん。ミュージック・ライフ無き後(休刊中ということです)、シンコー・ミュージックでもっとも古株となった洋楽誌「ヤング・ギター」を創刊した方。60年代から、バリバリ日本の洋楽雑誌ビジネスに関わってきて、「ポップス」から「ロック」への移り変わりを演出する立場に居た人。スゴい方じゃないですか!
 それにしても、そのお話は面白い。面白過ぎる。豪放磊落(ごうほうらいらく、って言うんですか)の意味通りの語り口。ひとつ話題を振れば、とめどなく継ぎ合って、枝分かれして、また新しい花やつぼみにたどりついてゆく記憶の枝葉。言葉の選び方が粋だし、洒落てるし、ジェントルマン。それでいて、新しいものを嗅ぎ分けて、ふところに飛び込んでゆく力は、例えは失礼かもしれないけど、キレイなオネエチャンにちょっかい出してるような下心みたいに、一切「自分」ってものを離れては考えてない。僕にはリアル。「こうあるべき、こういうものを好きって言わなくっちゃ」ってことじゃなくって、「好きだったからこうなった」。
 今、音楽の現場で「流行」を作り出す、って作業に従事してる人たち。僕はそういう人たちに敬意は持つけれど、今はみんながひとりであまりにも自分だけのアンテナを出したがってて(そのくせ集団になると、やけに仲良しになっちゃって)、ちょっと食傷気味。そんな自閉具合が、音楽産業そのものの傾き具合(メガヒット頼りで、意欲的な作品の発売がしにくい現状)にもかなり関わってる気がする。自分の好きなものにこだわり続けてもいい。そのときその時代で起こっていたこと、それにいちいち左右されて、影響されてもいい。だけど、「じゃあ、そこで自分は何をしたいのか? 何が出来るのか?」って実戦的(下世話にビジネスと言ってもいい)に考えて楽しんでゆくってことが、あまりにも苦手な人が多いんじゃない?
 別に「日経プレジデント」なんか読まなくてもいい。今回の山本さんのインタビュー、これが最高のテキストになるハズ。いい時代の昔話かもしれないけど、気持の有効期限は今でも全然変わらないと思うから。何より最高にロックだし!

 

 

 

「別れの一本杉」を鉄弦で弾いたんだよ!

松永:えーと、この企画は、20世紀後半の日本の洋楽の成り立ちに関わってきた人や、すごく早い時期にアメリカに行った人とか、そういう人たちと音楽との関わり方をどんどん聞いて探って行こうって企画で「20世紀に連れてって」というんですが・・・。

山本:要するに、俺は古い人間だから、ってことだね(笑)。

松永:みなさんにお訊きしてるんですけど、一番、早い音楽的記憶って何でしょう? 音楽に興味を持つきっかけになったものとか。

山本:俺、生まれたのが1942年3月7日なんだよね。何だろね。とりあえず僕がギター弾くキッカケになったのは、中学2年の野球部の合宿の時に、先輩が持ってきたギター。それを弾いたのが初めてかな。そのボロボロのギターに、そのとき初めてさわって、その合宿が終わる頃には先輩より俺の方が上手かった(笑)。全音のガット・ギターみたいなかたちのに鉄弦張ったんだね。それで春日八郎の「別れの一本杉」とか三橋美智也の「哀愁列車」を弾いたんだ。
 でも、それと同じ中学2年の時、1955年に「暴力教室」を見てて。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの。アレだよね。ロックに目覚めたのは。あの映画が、当時18歳未満禁止だったんだよね。それを何とかもぐりこんで見たんだわ。高校生になってた中学の先輩がやっぱり潜り込んで見て、その感激を俺に話して、で、どうしても見たくなって行っちゃったんだよ。

松永:その頃は、まだ「ロック映画」なんて言葉は無いんですよね。

山本:無い。後で「ロックンロール」だって聞いたんだ。スイングする感じがね。「別れの一本杉」じゃなくて(笑)。

松永:でもガットギターに鉄弦ってのもロックな感じしますけどね。

山本:昔はそういうギターしか無かったんだ。すぐ弦切れちゃうんだよね。張り替えるってのが出来なくて、切れた弦をつなぐわけ。結んだり。ビリビリィーって音になっちゃうんだけどさ。
 そんで、その後、隣に住んでたオニイチャンにプレスリー聴かせてもらうんだよね。ドーナツ盤。
 あれ、でもその前に、俺、78回転のヤツ聴いてたかなあ。あのね、ウチのオヤジが作曲家なんですよ。その関係で、小学生の頃からビクターのスタジオ行ったりとかして、この業界を平気で見てたから。

松永:じゃあ、割と家の中にレコードとかいっぱいあるような環境で育ったんですね。

山本:そうだね。手巻きの蓄音機とか。でも、プレスリーは隣のオニイチャンにやっぱり教わったんだね。僕より5つくらい上だったかな。遊びに行ったら、「こんなの知ってる?」って聴かされて。だから俺が最初に買ったシングルってプレスリーだね。「キング・クレオール」だったと思うんだけど。
 中学の終わり頃になると、文化放送の「百万人のポップス」聴きだして、毎週ノートにチャート付けるようになって。今やってるようなマニアの連中とあんまり変わらないんだよ(笑)。

松永:僕も付けました(笑)。4局くらいのチャートを総合して、自分の好みも入れてマイ・チャートとかね。

山本:あの頃、キャッシュボックスのチャートを使ってたんだよね。キャッシュボックスってどういうもんなんだろうか、って憧れたよね。その憧れがあったから、俺、後に文化放送の入社試験受けたもんね。ただ、それだけなんだけどね、理由は。そういう音楽をかけられる、っていう。

 

 

世の中の移り変わりの中で、否応無しに耳に飛び込んできちゃうもの。それが最高にドキドキさせるんだよ!

山本:高校に入ると、友達の影響でカントリー聴き始めるんだよ。その友達がカワセのマスターってギター持ってたんだよね。それ持ったときに「何だこれは!」ってなっちゃってさ。今思えば丸太ん棒みたいなギター(笑)なんだけどさ!

松永:不勉強で申し訳ないんですけど、そのカワセのギターってのは、どんなギターなんですか?

大江田:カワセってのは神田に今もある、古くからの輸入楽器屋さんで、ギブソンやマーチンとか売ってたんです。その自社ブランドが「マスター」って言ったんですよ。自分だけの特注が出来る、ってのが特長で、その頃の最高のギターだったんですよ。

松永:はあー。じゃ、それを高校生で持ってるってことは。

山本:いやあー、画期的だよ。だって、それまで俺、全音の鉄弦のアレしか持ってないんだもん。それで、ピックを持つ、ってこともそのとき初めて知ったんだもん。

松永:それまでは見よう見真似だったんですか。楽譜を見たりとかもしないで。

山本:俺、楽譜は読めるんだよ(笑)。親父には反発してあんまり音楽の勉強とかはしなかったけど、何となく身についてて、読めるようになっちゃってたんだ。
 そのカワセのマスター持ってるのが「魚屋のノブちゃん」って言うんだけどねえ(笑)。親しくなって、それでカントリー・バンドやったんだよ。

松永:その頃のカントリーって言うと、小坂一也さんとか?

山本:いやあ、ハンク・ウィリアムスだよ。だって、小坂一也とか、後のロカビリーとかみんなカントリーから来てるんだから。「日劇ウェスタン・カーニバル」ってのはそこからきてるんだよね。「カントリー&ウェスタン」のウェスタンなんだよ。あの頃は、カントリーって言わないでウェスタン・バンドって言ってたんだ。「ウェスタンの友」って雑誌が出てたくらいで。かまやつさんとかもみんなそこからスタートなんだよね。ウェスタンとロックンロールが交じって「ロカビリー」になったんだよ。だからGSの時代になっても、その名残で「ウェスタン・カーニバル」って言ったわけ。それを作ったのがホリプロの堀威男さんとかここ(シンコー・ミュージック)の会長やってる草野昌一だったんだ。日本の今の音楽業界を形成した人たちって、みんなウェスタンのアーティストだったり、マネージャーだったりしたんだよ。

松永:山本さんのバンドに話を戻しますけど、それはどうだったんですか?

山本:学芸会でやった(笑)、学園祭とか。演奏大好き、って感じでもなかったね。意外といい加減にやってた。
 でね、その後、何かまた変わるんだよ。自分の中でもまた違うものを求めてたのかな。1958年にポール・アンカが来たんだよ。それが浅草国際劇場なんだよ。それが外タレを見た最初。ウフ。「外タレ」か(笑)。何かいいね(笑)。日本のシーンも変わってきてたんだよ。それまでのウェスタンからニール・セダカとかポール・アンカとかに。

松永:じゃあ、そっちの方に興味も移って。

山本:だって、世の中の移り変わりの中で、否応なしに耳に飛び込んできちゃうんだもん。それで、ポール・アンカから俺、ロカビリーに入るんだよ。そう。下地があるじゃない。55年の「暴力教室」。ビル・ヘイリーが。そっからプレスリーでしょ。ポール・アンカでしょ。そんで日本のロカビリーに入ってくんだよ。1958年って言ったら、第1回レコード大賞でしょ。水原弘の「黒い花びら」。水原弘もロカビリーの中から出てきたようなものなんだからね。
 俺の高校2年の頃ってのは、マンボ・シューズ履いて、千葉の田舎から東京までキセルしながら来るんだよ。最悪、有楽町の駅で駅員に呼び止められそうになったら、バッと逃げるんだよ。で、逃げる先が三原橋の「ニュー美松」か銀座「ACB」なんだよ。「ニュー美松」にはダニー飯田とパラダイス・キングで、ヴォーカルが坂本九とか、飯田久彦とかさ、「ACB」にゃ井上浩とか松島アキラ、とにかくいろんなのが居て、そこにハマりこんで行ったわけ。そういやあ名前にヒロシがつくのが三人いて、三人ひろしなんて言ってたなあ。夜は夜で、銀座にダンスホールがあってさ。今度はそこでさ、ツイストを踊るんだよ!
 その頃、チャビー・チェッカーってのが来たこともあんだよ。

松永:「ツイストUSA」!

山本:そうそうそう。そいつが来たときも行ったんだよ。そのダンスホールで。

松永:今のイメージからすると、それぞれの名前からは激しい感じはしませんよねえ。例えば、ポール・アンカと言えば僕には穏健なポップスで、「ロックなステージなわけないじゃない」とか単純に思っちゃうんですけど。だけど、やっぱりそこには激しく、ドキドキさせるものがあったんですよね。

山本:そりゃあそうですよ! それ以上のものは無いんだもの、僕らには。今みたく、ゴリッとするものがあればさ、またそっち行ったかもしれないけど。「ニュー美松」だってさ、スゴイんだから。音響だってまだ無えからさ。ピックが燃えちゃうんだから(笑)。熱くなりすぎちゃって(笑)。いや、燃えないよ、本当は。でも、燃えちゃうぐらい弾かないとさ、っていう意気込みがあったんだよ。

 

 

日本版「Down Beat」で仕事がしたい、って思ったんだ。何でもいいです!って。

松永:大学でついに上京されるんですね。

山本:そう! ついに上京。ところが、上京して変わっちゃうんだよ、これが。

松永:え? 高校のときからそんな激しい感じだから、一人暮らしなんか始めたら爆発しちゃったんじゃないんですか?

山本:しない! やっぱりねえ、ド田舎から一人出てきてねえ、寂しくお茶の水の街を歩いてたらさあ、心地よいサックスの響きが聞こえてきたのよ。それにつられて、それが流れてきた店に入ったのが「ニューポート」ってモダン・ジャズがかかってるジャズ喫茶だったんだ。そこで初めて聴いたのがコルトレーン。「・・・これだよね!」って(笑)。俺、いい加減だな(笑)。

松永:「都会の孤独」に捕まって、ジャズに引き込まれちゃったんですね。

山本:そう。スゴい変化だよね。で、同じ寂しい思いしてる友達と集まってさ、金が無いからレコードを順々に買って、それを聴く会ってのが出来た。どんどんモダンジャズにのめりこんで行ったんだよ。
 それで、ある日、ふと見たら、新興楽譜出版社(シンコー・ミュージック)からね、日本語版「Down Beat」ってのが出てたんだ。今ね、これバックナンバー全部持ってたら100万するよ。

大江田:岩波洋三さんが編集長でしたっけ?

山本:あの人はスイング・ジャーナル。相倉久人さんや、後にスイング・ジャーナルの編集長になる児山さんとかがいたな。油井正一さんとか書いてたよ。それでね、僕はそこでバイトすることにしたんだよ。原稿取りから始めたんだ。そのときに油井さんとか、久保田次郎さんとか、瀬川昌彦さんとか、いろんな人たちを知ったの。で、その中で一番僕を可愛がってくれたのが、植草甚一さんだったんだ。
 赤堤の家に原稿取りに行くとね、本がデャアーっとあるんだ。で「今日、飯食っていかない? ご飯食べにいかない?」って言ってくれるんだ。嬉しかったねえ! そこで、奥さんが作ってくれたご飯を食べると、「山本クン、新宿に一緒に出よう」って「木馬」とか連れてってくれんだよ。あの頃のジャズ喫茶、シブい店ばっかりだったなあ。

松永:じゃあ、ジャズが入口になったんですね。シンコー入社への。

山本:そ!

松永:ミュージック・ライフはその頃はどうだったんですか?

山本:ミュージック・ライフってのは、昭和23年創刊なんだけど、最初は民謡雑誌っていうか。それを今の会長の草野さんが変えてきたんだよ。ま、ジャズが流行ればジャズをやるし、マンボが流行れば「マンボのミュージック・ライフ」だもんね(笑)。それからウェスタンでしょ。ロカビリーでしょ。それからコニー・フランシスみたいな方に行って。後藤久美子(松永注:アレジの妻とは別人)だ、弘田三枝子だ、田代みどりだ、あの辺のカバー・ポップスとかに変わってきたんだ。
 「Down Beat」のかたやさあ、ミュージック・ライフはそんなのやってるわけ。表紙なんかザ・ピーナッツだもんね。ま、原稿取りは両方の雑誌やってたんだよね。使いっ走り。まあ「Down Beat」出してる会社にいられるわけだからさ、「どこでもいいです!」(笑)みたいなのと同じ。その雰囲気にいられればさ、良かったんだよ、何でも。あの頃、本の荒縄縛りとかもやったもん。
 で、そのまま入社しちゃったんだよ。でもね、ジャズは、コルトレーンの「メディテイション」ってアルバム。そっから付いて行けなくなっちゃったんだよね(笑)!

松永:植草さんはその時期以降もオッケーなんですよね。

山本:オッケーでしょう! オッケーだろうけどさあ、俺はちょっとねえ。ニュー・ジャズの「プルルプルルル、トゥルトゥルブブブブー、キュイー!」、これはねえ(笑)。もう遠慮、みたいな。だって孤独の安らぎだった筈のジャズがさあ、何かさあ! コルトレーンなんて、その後死んじゃったんだからねえ(笑)。あの人、あそこまで行っちゃいけないよねえ(笑)。

 

 

スライド・コンサートで人が殺到しちゃうんだからね。俺、始末書書いたんだよ。

松永:洋楽の方も、いよいよロック時代って言うか、ビートルズとか出てくるんだと思いますが。

山本:いや待てよ。その前に、俺、エレキ持ったのが62、3年かな。グヤトーンのチェックのワン・ピックアップのやつだったんだよ。確か、グヤトーンに広告の原稿貰いに行って、そんとき初めて弾いたんだ。アンプを通して。「別れの一本杉」を。ワハハハハハ(笑)。だから、ヴェンチャーズの前だねえ。

大江田:ヴェンチャーズが「ライブ・イン・ジャパン」で人気爆発するのが65年ですよね。

山本:(新宿)厚生年金。でも、その頃、俺はもう「仕事」って感覚だったんだよ。ヴェンチャーズのパート譜ってのは俺が編集したんだよ。僕のアイデアで、中綴じで楽譜が一個一個それぞれ取れるやつで。しかもドラム、ベース、ギターとかパート別になってるんだよ。

大江田:なるほど。それまでの楽譜ってのは、そんな風じゃなかったんですよね。

山本:無かった。パート別にしたら面白いだろうな、って思って。要するに、パート別ってのを思いついたのはさ、レコーディングを見て、だよ。あれ見ると、スコアから全部、写譜屋さんがパート別に分けてってやるじゃん。それだよ。

松永:楽譜の編集をやるようになった流れっていうのは、どうだったんですか?

山本:社長が「やれ」って言うからさ。で、教則本を作らされた。「作らされた」って言うか、エレキギター教本とかは自分で企画して作った。グヤトーンと協力したりして。

大江田:もともとシンコーは楽譜屋さんだったんですよね。草野さんのお父さんが始められて、古賀政男の楽譜とかを出版してたのを、草野さんが洋楽雑誌出版的な要素を加えていかれたんですよね。

山本:そうそう。だから、漣健児さん(草野昌一さんの訳詞の時のペン・ネーム)は何故、訳詞するようになったかっていうと、ミュージック・ライフで働いてたんだよ。で、楽譜出版やってるおかげで、ネタが速く入る。海外から音が速く届くじゃないですか。それがうれしくて、じゃあ、これに訳詞付けたらどうか、ってやったらしいよ。それをレコード会社に持ってって。だって、誰よりも早く訳詞出来ちゃうんだもん。あの頃はアメリカとの距離感ってスゴかったもん。そんな時代だからね。
 あの頃、エアメール・スペシャルってソノシートの会社とかあったもんね。エアメールで物が届くってことがすごく売りになる時代だったし。早さを誇張してさ。

大江田:朝日ソノラマとかソノシートの会社もありましたよね。サントラとかGSとか。新宿西口のフォーク集会のドキュメンタリーとかもありました。

山本:あのドキュメントは浅沼勇(後のエレック・レコード代表)が仕掛けたんだよ。

松永:ソノシートの利点っていうのは早さと安さですか。

大江田:あと、付録になるんだよね。

山本:そう。だって、ミュージック・ライフの付録だってソノシートよく付けたよ。ポール・マッカートニーの声とかさ。ウォーカー・ブラザーズの「声の年賀状」とか(笑)。くだらないなあ、今考えると(笑)。
 ビートルズもね、もうミュージック・ライフの仕事やってたから、編集部ではバンバン流れてたし、あらためて買って聴くとか、そんなんじゃなかったね。仕事として聴いてた。だから「衝撃」とか別に覚えてない。「いや、この人たち低音が無いな」(笑)って思った。

松永:(笑)

山本:でもさ、サージェント・ペッパーズを初めて聴いたときは、衝撃だった。すごいと思った。ビートルズが来たときは、ずうーっと見たよ。職権濫用で(笑)。その頃はまだ編集部扱いしてもらえなくて「山本記者」(笑)扱いだったんだけど。来日のときは昔のヒルトン・ホテル(今のキャピタル東急)に僕は泊まり込みだったの。そんで、ポールが地下一階のスチーム・バスに入る、って情報があって、待ち伏せして、エレベーターから出て来るときに、僕は握手したの(笑)。でも、あの頃、「僕、ポールと握手した」なんて言いふらそうものなら、殺されてるよ。それぐらい厳しく警備されてたし、みんな逢いたがってたし。
 それから、ミュージック・ライフの仕事を本格的にするようになって、ハーマンズ・ハーミッツが来たときは一緒にボーリング大会やったり(笑)、ウォーカー・ブラザースが来たときは空港まで迎えに行ったりしたんだよね。あとは博報堂と組んでイベントやったり。「マジカル・ミステリー・ツアー」の上映会を武道館でやったりとか。それと、「ポール(マッカートニー)対スコット(ウォーカー)」っていうスライド・コンサート(笑)とかね。それ全国的にやるんだから(笑)。スゴいんだから。入口のガラスにお客さんが押し寄せて、しなっちゃうんだから!

松永:へえ。フィルム・コンサートで。

山本:(笑)フィルムじゃ無い、スライド。動かないんだから(笑)。九段会館でやったときなんか人が集まりすぎて、消防車と警察来ちゃって、俺、始末書書いたんだから(笑)。
 で、その一方でシンコーに長田ってアメリカン・フォーク好きのヤツがいて、そいつの影響で、アメリカン・フォークの本も出したな。そしたら、結構売れたんだよな。

大江田:島田耕さん達が書かれた「フォークを語ろう」。僕持ってます。65、6年頃のフォークの話なんですけど、レアな写真が多いんですよ。

山本:フォークの楽譜も出したよ。アレンジを俺がやってさ。いろんなことやりすぎてんだよ、俺。
 で、究極が1968年。俺はアメリカを見たんだ。

 

 

日本から見えるアメリカなんて、天体望遠鏡で見てるようなもんだからさ!

松永:今までお話を聞いた方の中では、もっとも早い渡米ということになります。

山本:だって、まだジャンボ飛んでないもん。DC8。あれが国際線の花形だった。空港に「無事で帰って来いよ」って、家族兄弟全部見送りにくる時代だから。
 まあ、行ったのは会社の研修なんだよ。でも研修って言うか、シンコーが契約してるアメリカの著作権会社を視察するって名目で、あちこち回ってくるってヤツ。3人で行ったの。草野社長と、営業部長と、あと僕。その当時は「観光」で行くと500ドルしか持ち出せないのね。それで「業務」で行くと2000ドルまで持って行ける、っていうのもあったからね。
 とにかく68年というと、すっごい時代だったんだよ、アメリカは。ヒッピー、フラワームーヴメントの真っただ中だったんだ。ロサンゼルスに着いたんだけど、ロスは大したことなかった。ウィスキー・ア・ゴー・ゴー行って初めて見たのがジョニー・リヴァースだったな。・・・何か、この辺話し出したら、あと3日ぐらいかかりそうだな(笑)。
 45日間行ったんだよ。ロスからレンタカーであちこち回りながらロッキー山脈入ってデンヴァーまで行って。でも、ちょっと時間かかりすぎちゃったから、そこから飛行機でニューヨークまで飛んだんだ。そのときに(グリニッチ)ヴィレッジで受けちゃったサイケデリックの洗礼は強烈だったね。

松永:まだフィルモア・イーストも健在で。

山本:全盛ですよ。すごかったよ、あのヒッピーたちは。初めはネクタイとかして行ってたんだけど、夏だったし、いつの間にかTシャツとかになっちゃって。そこでホントに変わったな。カルチャーショックだったね。「何だこれは」みたいな、ね。

松永:日本にも情報は入ってきてたんでしょう?

山本:だけどさ、そんな深いとこまでは見てないじゃない。天体望遠鏡で見てるようなもんだからさ(笑)。望遠鏡で見たって見え方が違うじゃない。空気とかさ、匂いとかさ。実際に、それを嗅いじゃったらさあ、これはスゴいよ。演説してるヤツはいるし、いろんな人種はいるし。
 そこから気を取り直してナッシュビル行って。ナッシュビルにシンコーの一番の取引先のエイカフ・ローズというパブリッシャーがあったからね。今度は仕事って言っても、接待って言うか、遊び? 観光気分を満喫してさ。のどかなミュージック・シティ、ナッシュビルって感じだよ。カントリーやってた者にはたまんない、みたいなとこもあったし。
 それ終わったら、サンフランシスコ。空港着いたら、スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」しか鳴ってないんだよな。あれは強力だったねえ。

松永:サンフランシスコはニューヨークにもましてヒッピー全盛だったでしょ?

山本:行ったんだよ。ハイト・アシュベリー。ニューヨークとはまた雰囲気違うんだよ。でも、ここのヒッピーも強力だった。日本人なんか入れなかったんじゃないの、あそこには。「危ないから止せ」って言われるんだけど、俺からしたら、そういうのこそ興味あるじゃない。で、片言の英語で「日本から来たんだ」って紹介してさ。そしたら、みんな良くしてくれてさ。ボスの目を盗んで、夜中によく出掛けたんだよ。「イージーライダー」なんかよりまだ前でさ、ハイト・アシュベリーが一番元気だった頃なんだよ。ジェシ・コリン・ヤングなんかあそこにいたんじゃないの? 俺にとっては、まさに「I Left My Heart In San Francisco」なんだよね。
 日本に帰ってきたら、カミさんがビックリしてたよね。俺が変わっちゃってて。「アメリカに住む」とか言い出してるし。だから音楽の聴き方も変わっちゃったもん。

大江田:どんな風に?

山本:俺、それからだよね、ハードロックとか聴きだしたのも。ツェッペリンのセカンドだもん。「Whole Lotta Love」のあのブッ飛んだ感じ。「あ、ロックってそうなんだ」って。で、真剣に「音楽って何なんだ? 歌って何なんだ?」って考え始めちゃって。

松永:出発する前のウォーカー・ブラザースとか、もう忘れちゃって・・・。

山本:それはもう。「大したことねえよ」とか「あれは違うよ」とか(笑)。嫌いじゃなかったけどね。いい曲多かったし。

松永:でも、「ポール対スコット」とかはもう止めようと。

山本:そういうダマしはもう止めよう(笑)と思った。ワハハハハハハ。

 

 

あめ玉をしゃぶってたら、そのついでに入ってた本質的なもんに影響されちゃうような、そういう雑誌が作りたかったんだ。

山本:それでね、いろんなことを頭の中で考えつつ、「歌って何なんだ」ってのを考えて行った先で、やっぱり「ヤング・ギター」っていう新しい雑誌を出そう、って思ったんだ。だから68年にアメリカ行ってなかったら、ヤング・ギターは出してないかもしれない。
 もともとは「楽譜雑誌」ってのを作ろうと思ったの。その中に、僕らがアメリカで受けたカルチャー・ショックみたいなものも入れて行こうと。あめ玉の中に何か本質的なことを入れようと。あめ玉しゃぶってて、ついでにここ読んでみたら、何か影響されちゃった、みたいなね。最初は売らなきゃいけないから、いろんなダマしもあるよ。ジミヘンのグラビアの裏が森山良子だったりしたよ(笑)。でも、ある部分では必ず先を行った洋楽のことをやろうとしてたんだよね。
 で、楽譜の方では、それまでの明星とか平凡とかの歌本ってのは、歌メロからリードを拝借してるからシャープとかフラットとかがいっぱいくっついちゃって、ギターでは弾きにくいわけ。だから、それを解消するためにカポの指示を付けようと思ったの。それは業界では初めてだったんだ。カポでキーを変えられるっていうことを楽譜に表したんだよ。PPM(ピーター、ポール&マリー)のやり方とかもだいぶ参考になったんだよ。彼らは同じ曲の中でも一本はオープン・チューニングで、一本はカポ付けて音の高低の変化を出してるんだよね。
 そうそう、話逸れるけど、さっきの朝日ソノラマで出てた小室等のPPM奏法はスゴいよ。あれはバイブルだね。エレキのは成毛滋のグレコの付録の教則本。あれで影響された人は多いよね。ね? 

大江田:PPMのは小室さんが、六文銭より全然前にPPMフォロワーズ名義で出したヤツなんですよ。僕もそれがバイブルなんです。

山本:それでトゥー・フィンガー奏法とかさ、我々には初めて判ったんだよ。カーター・ファミリー奏法とかは昔からやってたかもしれないけどさあ。

大江田:それを初めて小室さんが譜面にしたんですよ。来日したときに客席から双眼鏡で手を見て覚えたって。シンコペーションするって発想がそれまでは無かったんですよ。ヤング・ギターでも、小室さんや成毛さんのやり方を当然、参考にされたんですか。

山本:した! チョーキングとかを譜面に持ち込んだんだよね。そしたら、そのやり方で、雑誌がドーンと売れちゃったんだよ。

大江田:創刊はいつでしたっけ。

山本:創刊は69年の4月。ウッドストックより早いんだ。69年ってのが日本の音楽シーンでもいろんな新しい要素がグシャグシャになってた時代で。グループサウンズも役目を終えた、って感じだったし。ミッキー吉野が言ってたんだけど、「GSの時期をやり終えて、本当に自分たち、何で音楽やろうとしたんだろうねってとこに帰った」って。中津川のフォーク・ジャンボリーだって、69年が第1回だったし。そこから次へのステップの始まりだっていう意識がヤング・ギターを作ってく上でもあった。
 一方、その頃、俺はバッファロー・スプリングフィールドに行っちゃうんだよね。68年にウェストコースト行ってたことでハマる要素もあったしさ。で、その頃、はっぴいえんどの連中はバッファローのカヴァーばっかりやってたんだよ。
 そう言や、72年にはっぴいえんどをアメリカに連れてったのは俺なんだよ。

松永:え!?

(99年12月16日 シンコー・ミュージック7F ブレイクにて収録)

 

え!? ここで終わり!? って僕も思わず叫んじゃった。話は70年代を目前にどんどん面白くなってゆくところで、今回はタイムアップ。ここまでで2時間。一万字超。あまりにも面白い山本さんの話は、連載初の続編へと続きます。次回は、はっぴいえんど秘話から振り出しってことで。乞う御期待!!

 

 

「20世紀に連れてって」というこの連載のタイトルも、世の中が新ミレニアムに入ったと騒がれると(21世紀のスタートが2000年か2001年かという議論をともかくとして)、なんだか急にリアリティが増してくるようです。その昔に「今日の話は昨日の続き。今日の続きはまた明日」と繰り返しながら、毎日の話題をつないでいくラジオ番組がありましたが、今日につながる昨日が、とうとう20世紀の事となってしまいました。松永さんが本文中で書いていましたが、この連載では使用期限のない素晴らしい感性の聞き書きを続けたいと思います。

山本隆士
山本さんとは大江田が大学生時代からのおつきあいです。となると25年以上のことになります。柔らかい物腰は昔のまま。なんだかつい甘えてしまって、お願い事をずいぶんしてきてしまったような気がしますが、このインタビューも快く受けて下さいました。人柄がそのまま浮かび上がってくるようなお話で、とにかくおもしろい。ご本人も「こういうこと、やっといた方がいいよ」とおっしゃって下さって、ぼくらもずいぶんと意を強くしました。(大江田)


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