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ハイファイ大江田信のプロデュースで、リズム&ペンシル松永良平がお送りする新連載インタビュー企画 第3弾。
「別れの一本杉」を鉄弦で弾いたんだよ! 山本:要するに、俺は古い人間だから、ってことだね(笑)。 松永:みなさんにお訊きしてるんですけど、一番、早い音楽的記憶って何でしょう? 音楽に興味を持つきっかけになったものとか。 山本:俺、生まれたのが1942年3月7日なんだよね。何だろね。とりあえず僕がギター弾くキッカケになったのは、中学2年の野球部の合宿の時に、先輩が持ってきたギター。それを弾いたのが初めてかな。そのボロボロのギターに、そのとき初めてさわって、その合宿が終わる頃には先輩より俺の方が上手かった(笑)。全音のガット・ギターみたいなかたちのに鉄弦張ったんだね。それで春日八郎の「別れの一本杉」とか三橋美智也の「哀愁列車」を弾いたんだ。 松永:その頃は、まだ「ロック映画」なんて言葉は無いんですよね。 山本:無い。後で「ロックンロール」だって聞いたんだ。スイングする感じがね。「別れの一本杉」じゃなくて(笑)。 松永:でもガットギターに鉄弦ってのもロックな感じしますけどね。 山本:昔はそういうギターしか無かったんだ。すぐ弦切れちゃうんだよね。張り替えるってのが出来なくて、切れた弦をつなぐわけ。結んだり。ビリビリィーって音になっちゃうんだけどさ。 松永:じゃあ、割と家の中にレコードとかいっぱいあるような環境で育ったんですね。 山本:そうだね。手巻きの蓄音機とか。でも、プレスリーは隣のオニイチャンにやっぱり教わったんだね。僕より5つくらい上だったかな。遊びに行ったら、「こんなの知ってる?」って聴かされて。だから俺が最初に買ったシングルってプレスリーだね。「キング・クレオール」だったと思うんだけど。 松永:僕も付けました(笑)。4局くらいのチャートを総合して、自分の好みも入れてマイ・チャートとかね。 山本:あの頃、キャッシュボックスのチャートを使ってたんだよね。キャッシュボックスってどういうもんなんだろうか、って憧れたよね。その憧れがあったから、俺、後に文化放送の入社試験受けたもんね。ただ、それだけなんだけどね、理由は。そういう音楽をかけられる、っていう。
世の中の移り変わりの中で、否応無しに耳に飛び込んできちゃうもの。それが最高にドキドキさせるんだよ! 松永:不勉強で申し訳ないんですけど、そのカワセのギターってのは、どんなギターなんですか? 大江田:カワセってのは神田に今もある、古くからの輸入楽器屋さんで、ギブソンやマーチンとか売ってたんです。その自社ブランドが「マスター」って言ったんですよ。自分だけの特注が出来る、ってのが特長で、その頃の最高のギターだったんですよ。 松永:はあー。じゃ、それを高校生で持ってるってことは。 山本:いやあー、画期的だよ。だって、それまで俺、全音の鉄弦のアレしか持ってないんだもん。それで、ピックを持つ、ってこともそのとき初めて知ったんだもん。 松永:それまでは見よう見真似だったんですか。楽譜を見たりとかもしないで。 山本:俺、楽譜は読めるんだよ(笑)。親父には反発してあんまり音楽の勉強とかはしなかったけど、何となく身についてて、読めるようになっちゃってたんだ。 松永:その頃のカントリーって言うと、小坂一也さんとか? 山本:いやあ、ハンク・ウィリアムスだよ。だって、小坂一也とか、後のロカビリーとかみんなカントリーから来てるんだから。「日劇ウェスタン・カーニバル」ってのはそこからきてるんだよね。「カントリー&ウェスタン」のウェスタンなんだよ。あの頃は、カントリーって言わないでウェスタン・バンドって言ってたんだ。「ウェスタンの友」って雑誌が出てたくらいで。かまやつさんとかもみんなそこからスタートなんだよね。ウェスタンとロックンロールが交じって「ロカビリー」になったんだよ。だからGSの時代になっても、その名残で「ウェスタン・カーニバル」って言ったわけ。それを作ったのがホリプロの堀威男さんとかここ(シンコー・ミュージック)の会長やってる草野昌一だったんだ。日本の今の音楽業界を形成した人たちって、みんなウェスタンのアーティストだったり、マネージャーだったりしたんだよ。 松永:山本さんのバンドに話を戻しますけど、それはどうだったんですか? 山本:学芸会でやった(笑)、学園祭とか。演奏大好き、って感じでもなかったね。意外といい加減にやってた。 松永:じゃあ、そっちの方に興味も移って。 山本:だって、世の中の移り変わりの中で、否応なしに耳に飛び込んできちゃうんだもん。それで、ポール・アンカから俺、ロカビリーに入るんだよ。そう。下地があるじゃない。55年の「暴力教室」。ビル・ヘイリーが。そっからプレスリーでしょ。ポール・アンカでしょ。そんで日本のロカビリーに入ってくんだよ。1958年って言ったら、第1回レコード大賞でしょ。水原弘の「黒い花びら」。水原弘もロカビリーの中から出てきたようなものなんだからね。 松永:「ツイストUSA」! 山本:そうそうそう。そいつが来たときも行ったんだよ。そのダンスホールで。 松永:今のイメージからすると、それぞれの名前からは激しい感じはしませんよねえ。例えば、ポール・アンカと言えば僕には穏健なポップスで、「ロックなステージなわけないじゃない」とか単純に思っちゃうんですけど。だけど、やっぱりそこには激しく、ドキドキさせるものがあったんですよね。 山本:そりゃあそうですよ! それ以上のものは無いんだもの、僕らには。今みたく、ゴリッとするものがあればさ、またそっち行ったかもしれないけど。「ニュー美松」だってさ、スゴイんだから。音響だってまだ無えからさ。ピックが燃えちゃうんだから(笑)。熱くなりすぎちゃって(笑)。いや、燃えないよ、本当は。でも、燃えちゃうぐらい弾かないとさ、っていう意気込みがあったんだよ。
日本版「Down
Beat」で仕事がしたい、って思ったんだ。何でもいいです!って。 山本:そう! ついに上京。ところが、上京して変わっちゃうんだよ、これが。 松永:え? 高校のときからそんな激しい感じだから、一人暮らしなんか始めたら爆発しちゃったんじゃないんですか? 山本:しない! やっぱりねえ、ド田舎から一人出てきてねえ、寂しくお茶の水の街を歩いてたらさあ、心地よいサックスの響きが聞こえてきたのよ。それにつられて、それが流れてきた店に入ったのが「ニューポート」ってモダン・ジャズがかかってるジャズ喫茶だったんだ。そこで初めて聴いたのがコルトレーン。「・・・これだよね!」って(笑)。俺、いい加減だな(笑)。 松永:「都会の孤独」に捕まって、ジャズに引き込まれちゃったんですね。 山本:そう。スゴい変化だよね。で、同じ寂しい思いしてる友達と集まってさ、金が無いからレコードを順々に買って、それを聴く会ってのが出来た。どんどんモダンジャズにのめりこんで行ったんだよ。 大江田:岩波洋三さんが編集長でしたっけ? 山本:あの人はスイング・ジャーナル。相倉久人さんや、後にスイング・ジャーナルの編集長になる児山さんとかがいたな。油井正一さんとか書いてたよ。それでね、僕はそこでバイトすることにしたんだよ。原稿取りから始めたんだ。そのときに油井さんとか、久保田次郎さんとか、瀬川昌彦さんとか、いろんな人たちを知ったの。で、その中で一番僕を可愛がってくれたのが、植草甚一さんだったんだ。 松永:じゃあ、ジャズが入口になったんですね。シンコー入社への。 山本:そ! 松永:ミュージック・ライフはその頃はどうだったんですか? 山本:ミュージック・ライフってのは、昭和23年創刊なんだけど、最初は民謡雑誌っていうか。それを今の会長の草野さんが変えてきたんだよ。ま、ジャズが流行ればジャズをやるし、マンボが流行れば「マンボのミュージック・ライフ」だもんね(笑)。それからウェスタンでしょ。ロカビリーでしょ。それからコニー・フランシスみたいな方に行って。後藤久美子(松永注:アレジの妻とは別人)だ、弘田三枝子だ、田代みどりだ、あの辺のカバー・ポップスとかに変わってきたんだ。 松永:植草さんはその時期以降もオッケーなんですよね。 山本:オッケーでしょう! オッケーだろうけどさあ、俺はちょっとねえ。ニュー・ジャズの「プルルプルルル、トゥルトゥルブブブブー、キュイー!」、これはねえ(笑)。もう遠慮、みたいな。だって孤独の安らぎだった筈のジャズがさあ、何かさあ! コルトレーンなんて、その後死んじゃったんだからねえ(笑)。あの人、あそこまで行っちゃいけないよねえ(笑)。
スライド・コンサートで人が殺到しちゃうんだからね。俺、始末書書いたんだよ。 山本:いや待てよ。その前に、俺、エレキ持ったのが62、3年かな。グヤトーンのチェックのワン・ピックアップのやつだったんだよ。確か、グヤトーンに広告の原稿貰いに行って、そんとき初めて弾いたんだ。アンプを通して。「別れの一本杉」を。ワハハハハハ(笑)。だから、ヴェンチャーズの前だねえ。 大江田:ヴェンチャーズが「ライブ・イン・ジャパン」で人気爆発するのが65年ですよね。 山本:(新宿)厚生年金。でも、その頃、俺はもう「仕事」って感覚だったんだよ。ヴェンチャーズのパート譜ってのは俺が編集したんだよ。僕のアイデアで、中綴じで楽譜が一個一個それぞれ取れるやつで。しかもドラム、ベース、ギターとかパート別になってるんだよ。 大江田:なるほど。それまでの楽譜ってのは、そんな風じゃなかったんですよね。 山本:無かった。パート別にしたら面白いだろうな、って思って。要するに、パート別ってのを思いついたのはさ、レコーディングを見て、だよ。あれ見ると、スコアから全部、写譜屋さんがパート別に分けてってやるじゃん。それだよ。 松永:楽譜の編集をやるようになった流れっていうのは、どうだったんですか? 山本:社長が「やれ」って言うからさ。で、教則本を作らされた。「作らされた」って言うか、エレキギター教本とかは自分で企画して作った。グヤトーンと協力したりして。 大江田:もともとシンコーは楽譜屋さんだったんですよね。草野さんのお父さんが始められて、古賀政男の楽譜とかを出版してたのを、草野さんが洋楽雑誌出版的な要素を加えていかれたんですよね。 山本:そうそう。だから、漣健児さん(草野昌一さんの訳詞の時のペン・ネーム)は何故、訳詞するようになったかっていうと、ミュージック・ライフで働いてたんだよ。で、楽譜出版やってるおかげで、ネタが速く入る。海外から音が速く届くじゃないですか。それがうれしくて、じゃあ、これに訳詞付けたらどうか、ってやったらしいよ。それをレコード会社に持ってって。だって、誰よりも早く訳詞出来ちゃうんだもん。あの頃はアメリカとの距離感ってスゴかったもん。そんな時代だからね。 大江田:朝日ソノラマとかソノシートの会社もありましたよね。サントラとかGSとか。新宿西口のフォーク集会のドキュメンタリーとかもありました。 山本:あのドキュメントは浅沼勇(後のエレック・レコード代表)が仕掛けたんだよ。 松永:ソノシートの利点っていうのは早さと安さですか。 大江田:あと、付録になるんだよね。 山本:そう。だって、ミュージック・ライフの付録だってソノシートよく付けたよ。ポール・マッカートニーの声とかさ。ウォーカー・ブラザーズの「声の年賀状」とか(笑)。くだらないなあ、今考えると(笑)。 松永:(笑) 山本:でもさ、サージェント・ペッパーズを初めて聴いたときは、衝撃だった。すごいと思った。ビートルズが来たときは、ずうーっと見たよ。職権濫用で(笑)。その頃はまだ編集部扱いしてもらえなくて「山本記者」(笑)扱いだったんだけど。来日のときは昔のヒルトン・ホテル(今のキャピタル東急)に僕は泊まり込みだったの。そんで、ポールが地下一階のスチーム・バスに入る、って情報があって、待ち伏せして、エレベーターから出て来るときに、僕は握手したの(笑)。でも、あの頃、「僕、ポールと握手した」なんて言いふらそうものなら、殺されてるよ。それぐらい厳しく警備されてたし、みんな逢いたがってたし。 松永:へえ。フィルム・コンサートで。 山本:(笑)フィルムじゃ無い、スライド。動かないんだから(笑)。九段会館でやったときなんか人が集まりすぎて、消防車と警察来ちゃって、俺、始末書書いたんだから(笑)。 大江田:島田耕さん達が書かれた「フォークを語ろう」。僕持ってます。65、6年頃のフォークの話なんですけど、レアな写真が多いんですよ。 山本:フォークの楽譜も出したよ。アレンジを俺がやってさ。いろんなことやりすぎてんだよ、俺。
日本から見えるアメリカなんて、天体望遠鏡で見てるようなもんだからさ! 山本:だって、まだジャンボ飛んでないもん。DC8。あれが国際線の花形だった。空港に「無事で帰って来いよ」って、家族兄弟全部見送りにくる時代だから。 松永:まだフィルモア・イーストも健在で。 山本:全盛ですよ。すごかったよ、あのヒッピーたちは。初めはネクタイとかして行ってたんだけど、夏だったし、いつの間にかTシャツとかになっちゃって。そこでホントに変わったな。カルチャーショックだったね。「何だこれは」みたいな、ね。 松永:日本にも情報は入ってきてたんでしょう? 山本:だけどさ、そんな深いとこまでは見てないじゃない。天体望遠鏡で見てるようなもんだからさ(笑)。望遠鏡で見たって見え方が違うじゃない。空気とかさ、匂いとかさ。実際に、それを嗅いじゃったらさあ、これはスゴいよ。演説してるヤツはいるし、いろんな人種はいるし。 松永:サンフランシスコはニューヨークにもましてヒッピー全盛だったでしょ? 山本:行ったんだよ。ハイト・アシュベリー。ニューヨークとはまた雰囲気違うんだよ。でも、ここのヒッピーも強力だった。日本人なんか入れなかったんじゃないの、あそこには。「危ないから止せ」って言われるんだけど、俺からしたら、そういうのこそ興味あるじゃない。で、片言の英語で「日本から来たんだ」って紹介してさ。そしたら、みんな良くしてくれてさ。ボスの目を盗んで、夜中によく出掛けたんだよ。「イージーライダー」なんかよりまだ前でさ、ハイト・アシュベリーが一番元気だった頃なんだよ。ジェシ・コリン・ヤングなんかあそこにいたんじゃないの? 俺にとっては、まさに「I
Left My Heart In San Francisco」なんだよね。 大江田:どんな風に? 山本:俺、それからだよね、ハードロックとか聴きだしたのも。ツェッペリンのセカンドだもん。「Whole Lotta Love」のあのブッ飛んだ感じ。「あ、ロックってそうなんだ」って。で、真剣に「音楽って何なんだ? 歌って何なんだ?」って考え始めちゃって。 松永:出発する前のウォーカー・ブラザースとか、もう忘れちゃって・・・。 山本:それはもう。「大したことねえよ」とか「あれは違うよ」とか(笑)。嫌いじゃなかったけどね。いい曲多かったし。 松永:でも、「ポール対スコット」とかはもう止めようと。 山本:そういうダマしはもう止めよう(笑)と思った。ワハハハハハハ。
あめ玉をしゃぶってたら、そのついでに入ってた本質的なもんに影響されちゃうような、そういう雑誌が作りたかったんだ。 大江田:PPMのは小室さんが、六文銭より全然前にPPMフォロワーズ名義で出したヤツなんですよ。僕もそれがバイブルなんです。 山本:それでトゥー・フィンガー奏法とかさ、我々には初めて判ったんだよ。カーター・ファミリー奏法とかは昔からやってたかもしれないけどさあ。 大江田:それを初めて小室さんが譜面にしたんですよ。来日したときに客席から双眼鏡で手を見て覚えたって。シンコペーションするって発想がそれまでは無かったんですよ。ヤング・ギターでも、小室さんや成毛さんのやり方を当然、参考にされたんですか。 山本:した! チョーキングとかを譜面に持ち込んだんだよね。そしたら、そのやり方で、雑誌がドーンと売れちゃったんだよ。 大江田:創刊はいつでしたっけ。 山本:創刊は69年の4月。ウッドストックより早いんだ。69年ってのが日本の音楽シーンでもいろんな新しい要素がグシャグシャになってた時代で。グループサウンズも役目を終えた、って感じだったし。ミッキー吉野が言ってたんだけど、「GSの時期をやり終えて、本当に自分たち、何で音楽やろうとしたんだろうねってとこに帰った」って。中津川のフォーク・ジャンボリーだって、69年が第1回だったし。そこから次へのステップの始まりだっていう意識がヤング・ギターを作ってく上でもあった。 松永:え!? (99年12月16日 シンコー・ミュージック7F ブレイクにて収録)
え!? ここで終わり!? って僕も思わず叫んじゃった。話は70年代を目前にどんどん面白くなってゆくところで、今回はタイムアップ。ここまでで2時間。一万字超。あまりにも面白い山本さんの話は、連載初の続編へと続きます。次回は、はっぴいえんど秘話から振り出しってことで。乞う御期待!!
●「20世紀に連れてって」というこの連載のタイトルも、世の中が新ミレニアムに入ったと騒がれると(21世紀のスタートが2000年か2001年かという議論をともかくとして)、なんだか急にリアリティが増してくるようです。その昔に「今日の話は昨日の続き。今日の続きはまた明日」と繰り返しながら、毎日の話題をつないでいくラジオ番組がありましたが、今日につながる昨日が、とうとう20世紀の事となってしまいました。松永さんが本文中で書いていましたが、この連載では使用期限のない素晴らしい感性の聞き書きを続けたいと思います。 山本隆士 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | ▲このページのTOP
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