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第4回 山本隆士 後編 「何かが終わって、また新しいものが始まるんだ」
連載初の試みで山本隆士さんに2回連続ご登場いただいた。もちろん、前回オアズケ状態にしちゃった「はっぴい」な話もあります。 山本:僕はコーディネイターをやったんだよ。当時、キング・レコードの三浦(光紀)ちゃんやはっぴいえんどの連中に「アメリカ行ってレコーディングしたい」って頼まれたんだ。で、僕のロスの知り合いにキャシーって女の子がいて、その子と僕がやりとりして。とにかくアパートの部屋とか押さえちゃって。僕がみんなのパスポートの写真まで撮りに行ったんだぜ(笑)。あれは目黒のモーリ・スタジオだったよ。 松永:へえー! それザリバってバンドですよ、きっと。それが歴史的出会いだったんですね。 山本:お互いに自己紹介とかしたわけじゃないけどね。ただ、彼女の強烈な個性はあのときみんなに刻まれたんだよ。 松永:この頃、はっぴいえんどは事実上解散状態で、アメリカ行きのためにみんな集まったって聞いてますが。 山本:ああ、そんな感じだったね。72年の10月4日に発ったんだよ。初めはジム・メッシーナにすべてを任せようか、って話だったんだ。ところが、あのときジム・メッシーナはクスリでとんじゃってたんだね(笑)。何処にいるのかも判らない。メキシコの方にいるらしいよ、って。そんなの連れて来たって、プロデュースなんか出来やしねーよ!って、俺こんな話しちゃっていいのかな? ま、今ならいいか!(笑) 松永:じゃあ、最初からリトル・フィートやヴァン・ダイク・パークスが頭にあったわけじゃないんですね。 山本:違う。現地に着いて、ホリデイ・インでミーティングしてたら、キャシーに「今日、リトル・フィートのレコーディングをサンセット・サウンドでやってるから見に行かない?」って言われて行ったのさ。それで、連中の演奏を見てさ、「あ!これだったら彼らに頼みたい」ってはっぴいえんどの連中が言うからさ、交渉してみた。で、その場で決まった話なんだよ。「お金は?」って言うから、「お金もそんなには払えない」って。だけど「ミュージシャンズ・ユニオン通さないで、ダブル・スケールで、しかもキャッシュで払いましょう」って言って。 松永:安いも何も今じゃ永遠に不可能ですからね。ローウェル・ジョージももうこの世にいないわけだし(笑)。 山本:あの頃、外貨の持ち出しうるさかったんだけど、ちょうど上手い具合にシンコー側のコネクションによって切り抜けることが出来たんだよね。だいたい、もともとの予算が少なかったんで、僕が毎日ダウンタウンの銀行通いして交渉してさ。何とか小切手を振りだしてもらって支払いして。それで話が決まったんだ。 松永:日本から山本さんが連れてきたのがはっぴいえんどだった、っていう部分もありますよ。日本で最高のものを連れて来たんだから。 大江田:そのとき日本から行ったのは三浦さんとメンバーと・・・。 山本:僕でしょ。それから中村誠っていうシアター・グリーンにちょくちょく顔出してた男と。あともうひとりいたね。風都市ではっぴいえんどのマネジメントやってた上村律ちゃん。 大江田:カメラマンとか。 山本:いや。ロスではカメラマンはいなかった。その後、彼らが向かったサンフランシスコではしっかりしたのが付いたけどね。だから、あのときのロスでは僕が撮ったスナップ写真しか残ってない。・・・そうだ。写真が撮れるから、って言うんでもうひとり連れてったヤツがいたんだけど、そいつがちゃらんぽらんで駄目だったんだ。 大江田:サンセット・サウンドはサンセット大通り沿いなんですか? 山本:うん。有名だよ。ストーンズの連中とかもやってるし。あのときはアパートから歩いてレコーディングに行ってたね。 松永:あのとき、あのレコードに入ってた大瀧さんの曲は、新曲を用意出来なくて、現地で作ったっていうことですが。細野さんは『HOSONO HOUSE』の構想があったから、あんまりストックを出したくなかったのに出しちゃった、とか。 山本:大瀧君は確かに作詩は現地で松本隆に頼んでたね。細野君は「風来坊」とか「相合傘」とか、ストックから持って来たんじゃない? 松永:「さよならアメリカさよならにっぽん」ってキーワードはヴァン・ダイクが提案したものなんですか? 山本:いや、あれはもともとあったもの、て言うか、メンバーの誰かの心の中にあって、それをあっちでみんなでまとめた話だったと思うよ。それを、ドロドロにああいう風にしたのがヴァン・ダイク・パークス。あいつも、もうラリっちゃってて、アッパラパーで(笑) 松永:それもバッファローのラスト・アルバム『ラスト・タイム・アラウンド』を事実上作った人物ですもんね。 山本:バッファローのアメリカにさよならして、はっぴいえんどのにっぽんにさよならして。それが、それぞれの自分たちの音楽の旅の始まりだった。あのレコーディングのとき、そんな風に僕は感じてたな。
大瀧詠一はレコードをめくるのが速かった(笑) 山本:誰だろうねえ。喜んだって言っても・・・。松本隆なんかリズム録りが終わったら、勝手にどっか行っちゃうしねえ(笑)4人一緒に写真撮るなんて大変なんだから。オレが撮ったヤツが貴重なんだから。そうそう。あのとき、細野君、ベース盗まれちゃったんだよな、確か。 大瀧君とはね、一緒に中古レコード屋行ったよ。彼、めくるの速いんだ(笑)そのときに1枚49セントのシングル盤やらアルバムやら彼すごく買い込んじゃって。俺がレコード用のケースを買ってあげたし、JALにオーヴァー・ラッゲージ(超過荷物)の手配もしたんだよ(笑)。あのレコード・ケース、まだ俺の家に残ってるよ。 松永:後に山下達郎さんが大瀧さんの家でフィレスのオリジナル・シングル盤を聴かせてもらって、衝撃を受けた、って話があるんですけど。じゃあ、そのとき買ったヤツがそうなんですね!『ナイアガラ・ムーン』のELEC盤の裏ジャケに映ってるシングル盤とか。 山本:ああ、そうだろうね。あのとき130枚位合わせて買ったんじゃない? 松永:話聞いてると、山本さんが、あのときの影のプロデューサーみたいな。 山本:いや。やっぱりコーディネイターだね。音には口出さないし。みんながいい雰囲気で作業出来るように、とかさ。ケータリングの手配したりとかさ(笑)ツアコンみたいなもんだよね。例えば、夜はどこどこのポルノ行きたい、って誰か言ったら「ハイハイ」って運転して行ってさ(笑) 松永:もともとメンバーをいつぐらいから知ってたんですか? 山本:いや。個人的な付き合いというのは最初の頃は無い。エイプリル・フールでも柳田ヒロとかの方が付き合いがあったかな。 松永:今でこそ若い人たちに受け容れられてますけど、当時「売れてた」とは言い難いんですよね。 山本:所詮初めはURCだから。URCってのは、会員になった人に配るのと、後はコンサートのときの手売りとかだからね。そう言や小倉エージ(当時は小倉栄司)だもんな、1枚目のディレクター。 松永:ロスに話戻りますけど、何かが終わってしまうっていう切なさみたいなものは、みんなには無かったんですか? 山本:みんな仲悪かったわけじゃないんだよ。だけど、何かが終わってまた新しいものが始まる、って感じだったね。茂なんかも、ローウェル・ジョージに会って開眼したんだよ。「ああ、スライドってそうなんだ。オレの間違ってた」って。いや、間違ってはいないんだけど。目の当たりでローウェル・ジョージ見ちゃったからね。見ちゃいけないものを見ちゃったんだよね。それで、75年に『バンドワゴン』作ったでしょ。あのとき、僕の紹介状持ってアメリカ行ったの。それが功を奏したかどうかは判らないけれども、キャシーとかがコーディネイトをかなり協力してくれたんだよね。
「ディラン」で寝転がってた西岡恭蔵
松永:はっぴいえんどから少し話は戻るんですけど、「日本ロック&フォーク大全」って本を読んでたら、朝妻一郎さんのインタビューで、フォーク・クルセイダーズの出版権で、シンコーや他の会社に勝った、って話が出てました。当時のフォーク・シーンとの絡みって、どんなものだったんですか? 山本:シンコーはマイク真木とかブロードサイド・フォーも持ってたんだよね。フィリップス系のGSもやってたし。フォークルは67年かな。京都でさ、フォークルが解散コンサート(当時アマチュアだった彼らはこのコンサートで解散するつもりだった)をやったのを水上はるこが見に行ったんだ。それでね、自主制作盤を買って来たんだわ。それをミュージックライフの編集部の隣の試聴室のドアをばぁーっと開けて「こんなの買ってきたんだ、聴こうよ」って。で、聴いたら、その曲が「帰ってきたヨッパライ」だったんだよ。それを草野さんが嗅ぎつけて来て、「何だこれ?これ面白い!これだ!」って言って、神戸孝夫ってのが即、会いに言ったんだけど、一歩遅くて。PMP(現フジ・パシフィック音楽出版)の朝妻一郎に版権を取られちゃったんだ。それで大ヒットしちゃってさ。草野さん、悔しがってたなあ。 松永:あの曲の入ってるアルバム『ごあいさつ』は当時、かなり売れたそうですけど。 山本:うん。東京で、ああいう音楽が売れた、ひとつの走りだよね。アウト・フォーク。いいねえ。知ってる?キング・レコードの教養にいた三浦光紀が勝手に作った「アウト・フォーク」っていうレーベルみたいなものがあって。 松永:教養っていうことは・・・? 大江田:童謡とか学芸的なものを出してたのに紛れて始めたんですよね。 山本:校歌寮歌集とかね。で、一番最初に出したのが小室等の『私は月には行かないだろう』。2番目が高田渡なんだよ。 松永:それが後のベルウッドになる、というわけですね。 山本:そう。それで、その頃になると広島フォーク村をやってたよしだたくろうも出てきたりして、だんだん東京にも人が集まり始めて。関西は関西で独自のシーンを作ってゆくようになったんだ。 松永:関西と言えば、あの「ディラン」に行かれたことがあるそうですけど。 山本:西岡恭蔵が『ディランにて』ってレコードを作ったでしょ。その前だよな、行ったのは。大阪に「ディラン」って名前の、みんながタムロしてる喫茶店が出来たって聞いて。 大江田:アンチ音楽舎(URC)系の人たちのたまり場だった、みたいなところもありましたよね。 山本:ロックっぽいフォークって言うのかな。そういう流れが後に福岡風太のやった「春一番」コンサートに繋がってくんだよね。で、それとは別に新しいロック系の連中がお祭り広場でやったのが「8・8ROCK DAY」ってわけ。大阪ではその2つの派閥が出来るわけさ。 松永:「8・8」って言えば、サウス・トゥ・サウス。 山本:それに大上留利子のいたスターキング・デリシャスとか。 松永:ソウル寄りってイメージありますよね。 山本:そうそうそう。で、もっと汚ねえカッコしてメッセージしちゃってるのが「春一番」系でさ(笑) 大江田:でも、派閥って言っても、対立してるわけじゃないんですよね。 山本:そう。別に仲悪かったわけじゃない。言葉のニュアンスとか、センスには違いがあったけどさ。「8・8」にも「春一番」系の連中がゴボォーってやって来て、ヤアヤア楽しんでったりするんだよね。大阪っていうところがそういう土地柄なんだ。
ヤング・ギターの転機、僕の転機
大江田:天辰保文さんがヤング・ギターに入ってきたってのは、いつ頃でしたっけ。 山本:74、5年くらいかな。俺ね、天辰の影響って大きいんだよね。特に、ウェスト・コースト系の音楽についてはすごく教えてくれた。天辰はね、「ぷらす・わん」やってたんだよね。 松永:「ぷらす・わん」ってのは? 大江田:ミュージック・ライフはアイドルっぽいじゃないですか。だから、よりシリアスなロックを扱おうって雑誌で。 山本:いわば、シンコー版のニューミュージック・マガジンみたいなね。73年創刊で、キャッチが「4チャンネル・エイジのロック・マニアに送るぷらす・わん」。何だそりゃ? 意味判んないな! ワハハハハハ! こんなの引っぱり出されたら天辰なんか恥ずかしくって倒れたまま立ち上がれなくなっちゃうんじゃないの(笑)。 大江田:短命だったんですよね。 山本:まあ、あんまり(売れ行きが)よくなくって。で、終わっちゃって、天辰が僕のとこ(ヤング・ギター)にまわってきたの。それで、一緒にやってるうちに、彼にいろいろ影響されてさ。まあ、こっちは68年にアメリカに行っちゃって、彼よりも大事なところを掴んじゃってるっていう自負もあるんだけどさ(笑)。だけど、彼はウェスト・コーストの音楽については博士だったね。僕の師匠だった。リンダ・ロンシュタットの写真眺めて、一晩中ぼーっとしてられるってヤツだったんだから(笑)。 大江田:天辰さん、ジャクソン・ブラウン好きでしたよね。 山本:そう。小倉エージと天辰と北中正和で「デヴィッド・リンドレーと仲良くなってジャクソン・ブラウンに会う会」(笑)なんてのやってたな。確か長門(芳郎)もいたな。ホンットにやってたんだから。真剣だったんだから。 松永:すごい神格化ですね。 山本:いや、もう神だよ。あの当時で言ったらねえ。 大江田:あの頃のジャクソン・ブラウンは詩も豊かだったし、LAの音楽の最良の部分があったし。とにかく、彼について素晴らしい文章を書ける人が一番偉かったんですよ。 松永:そんな風にヤング・ギターが70年代に関わってきたアメリカの音楽とか日本のフォークとかの流れって、80年代を迎えて行くにあたって、変わってゆきますよね。現に僕が中学生だった80年代アタマって、ミュージック・ライフもそうだったように、洋楽雑誌はいわゆるヘヴィーメタル・ヒーロー全盛だったと思うんですけど。山本さんの中では、そういう流行って言うか、若い人たちの要求ってどう受け容れて行ったんですか? 山本:・・・・いい質問だ(笑)。
「点」じゃなくって「線」を遺していかなくちゃ
大江田:随分音楽雑誌も様変わりしましたよね。作り方も変わったし、執筆陣も変わったし。最近は雑誌不況と言われて久しいですが。 山本:いやあ、そりゃあ誰もが危機感は感じてるんじゃない。その辺のJ-popとか追っかけてる雑誌も、もうこれ以上は伸びないし。次を考えないと。その辺はオレは体験的に判ってるからさ。でも、ヤング・ギターはまた上がってきてるんだよね。だから、どっかで時代が本物志向になってる? なっててくれればいいんだけどさ。 松永:いや、でも山本さんの秘蔵ビデオとかだったら、隠れ大人受講生が増えちゃうでしょ。 山本:いや、俺、こういうときが来るんだったら、ちゃんと整理しときゃ良かったな、って思うんだけどね。 松永:映像となるとテレビ局にもあんまり残ってないって言いますよね。 山本:あれはテレビ局が悪いよね。こないだもあるテレビ局行ったらね、ディレクターが「大変なんですよ!」って言うんだよ。今までのオンエアした在庫のビデオを、倉庫一新で全部捨てられちゃったんだって。冗談じゃない!俺も三回くらいひっくり返っちゃって。それを拾ってると叱られちゃうんだって。でも、こっそり捨て場からいくらか拾ってきたんだって。僕がもらい受けたいくらいなんだけど、そうすると今度は権利の問題とかが出てきちゃうから、じゃあ捨てちゃえ、って。価値観の判らないヤツがそんなことしちゃうんだよ。メディアは何かを遺していかないといけないのにさ。
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松永:どうも、長いお時間、お話聞かせていただいてありがとうございました。最後の質問なんですが、今まで取材とかでいろんな人に会って来られたと思うんですが、忘れられない人っていますか? 山本:・・そうね。だから、俺の中ではやっぱりエディ・ヴァン・ヘイレンとか忘れられないよね。でも、その中でも特別なものって言うと、レス・ポールかな。あれは89年。ヤング・ギターの20周年記念で会ったんだ。ニュージャージーの彼の家まで行ったんだ。 大江田:どうでした? 山本:いや、もう、すごいよ。だって、あの音だもの。あの歳で指もよく動いてたし。何たって人間国宝、いや、地球上の宝物だからね。 大江田:ロックはもちろん、カントリーの人にとっても、ジャズの人にとっても、偉大な存在ですよね。ハイファイでも彼の存在は別格ですよ。 松永:アイデアマン、って言うか、クレイジーなところもあるし。元祖多重録音だし。古い写真で見たことあるんですが、今でもあんな機材の山の中に住んでるんですか? 山本:そうそうそう。家中がオモチャ箱みたいなもんなんだ。古いアンプとかいっぱい転がってるし。汚ねーんだよ、家の中。でも、ガレージの上を改装したスタジオはキレイだったよ。 松永:何か話してて印象的なこと言ってました? 山本:・・・うーん。あのね、最後にね、「俺は残り少ない人生を人工衛星に乗ってどうのこうの」ってすごいイイ言葉があっったんだよね。何だったっけ・・・・・。忘れちゃったなあ!(笑)ま、いいか! これで終わりの方が面白いよ! ワハハハハハハハ!
(2000年1月25日 シンコーミュージック7F 「ブレイク」にて収録)
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