20世紀に連れてって

| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |

 

第4回 山本隆士 後編

「何かが終わって、また新しいものが始まるんだ」

 

 連載初の試みで山本隆士さんに2回連続ご登場いただいた。もちろん、前回オアズケ状態にしちゃった「はっぴい」な話もあります。
 40年に渡って音楽ビジネスに関わってきて、その蓄積された実績、突進してきた道のりの長さは、とてもとても僕に見渡せるような簡単なものじゃないことは判っている。だけど、山本さんが単なる「生き字引」タイプの人だったら、いくら僕が古い音楽が好きでも、とうに退屈しちゃってるだろう。あやうく自慢話になりそうなところをひょうひょうと切り抜ける抜群の語り口や、とても大切なことをド忘れしてしまった自分を大爆笑して許してしまうところに、実は最高の魅力がある。音楽そのものや、音楽に関わる人たちに「がんばれよ」とハッパをかけ続けている親分さん、みたいなところがあって、そこら辺がもうどうしようもなくニクい。自分が生きてきた音楽の現場への愛情、そこに確かにいた人たちへの語り尽くせない思いが言葉の中に実感としてあるから、とても信頼出来てしまうのだ。
 憧れで突き進んできた60年代までとは違って、今回は70年代以降の話が中心になった。ドカンドカンと感受性が次々に爆発してた時代から、爆発させる側に話題は回ってきたわけで、その分、話にいくらか切なさがトッピングされてたりする。
 それにしても、言葉につくづく感じるのは、事実の中に感情を遺してゆけること。それがどんなに素晴らしい才能か、ってこと。それが「おなじみの事実」を何物にも代え難い「宝物」に変えるのだ。
 2回合計で4時間半に及んだインタビュー。その後編、お楽しみください!



「さよならアメリカさよならにっぽん。じゃあ次はメキシコにしたら?」ってヴァン・ダイク・パークスたちは言ってたんだよな(笑)

松永:前回お話を伺ったのがあまりにも楽しかったもので、大江田さんと相談してまた来ちゃいました。まずは、前回を読んだ人たち全員が気にしてるであろう、はっぴいえんどのロス話から始めますか。

山本:僕はコーディネイターをやったんだよ。当時、キング・レコードの三浦(光紀)ちゃんやはっぴいえんどの連中に「アメリカ行ってレコーディングしたい」って頼まれたんだ。で、僕のロスの知り合いにキャシーって女の子がいて、その子と僕がやりとりして。とにかくアパートの部屋とか押さえちゃって。僕がみんなのパスポートの写真まで撮りに行ったんだぜ(笑)。あれは目黒のモーリ・スタジオだったよ。
 そうそう。ちょうどそのときにそこのスタジオでレコーディングかリハーサルか何かやってたバンドがいてさ。キーボードの女の子がダーン!と弾き始めたんだよ。そしたら、はっぴいえんどの連中も俺もみんなびっくりしちゃってさ。すごい才能を感じさせる音だったんだよ。それが鈴木顕子。後の矢野顕子だったんだよ。

松永:へえー! それザリバってバンドですよ、きっと。それが歴史的出会いだったんですね。

山本:お互いに自己紹介とかしたわけじゃないけどね。ただ、彼女の強烈な個性はあのときみんなに刻まれたんだよ。

松永:この頃、はっぴいえんどは事実上解散状態で、アメリカ行きのためにみんな集まったって聞いてますが。

山本:ああ、そんな感じだったね。72年の10月4日に発ったんだよ。初めはジム・メッシーナにすべてを任せようか、って話だったんだ。ところが、あのときジム・メッシーナはクスリでとんじゃってたんだね(笑)。何処にいるのかも判らない。メキシコの方にいるらしいよ、って。そんなの連れて来たって、プロデュースなんか出来やしねーよ!って、俺こんな話しちゃっていいのかな? ま、今ならいいか!(笑)
 とにかく、それでも行っちゃえば何とかなるよ、って。スタジオだけ俺がサンセット・サウンド・レコーダーズを押さえといたの。で、キャシーに何とかジムの代役の手配頼むぜ、って言ってさ。アイツも結構、業界の顔だったから。とにかく海を渡っちゃったのよ。

松永:じゃあ、最初からリトル・フィートやヴァン・ダイク・パークスが頭にあったわけじゃないんですね。

山本:違う。現地に着いて、ホリデイ・インでミーティングしてたら、キャシーに「今日、リトル・フィートのレコーディングをサンセット・サウンドでやってるから見に行かない?」って言われて行ったのさ。それで、連中の演奏を見てさ、「あ!これだったら彼らに頼みたい」ってはっぴいえんどの連中が言うからさ、交渉してみた。で、その場で決まった話なんだよ。「お金は?」って言うから、「お金もそんなには払えない」って。だけど「ミュージシャンズ・ユニオン通さないで、ダブル・スケールで、しかもキャッシュで払いましょう」って言って。
 ミュージシャンズ・ユニオンってのはさ、あの頃、1セッションで3時間単位だったんだよ。でギャラが最低のシングル・スケールでだいたい120ドル。もちろん、プラス健康保険料を別に支払うんだけどね。ダブル・スケールってことは、その倍。240ドル。それを、まあ、言ってみりゃ「とっぱらい」だよね。組合も通さず、女房子供にもバレない小遣いってわけ。だから、今だったら2万5千円。当時1ドルは300円くらいだったから7万から8万円くらい。それでローウェル・ジョージにスライド弾いてもらえるんだったら、今から見たら、こんな安い話無いよね(笑)。

松永:安いも何も今じゃ永遠に不可能ですからね。ローウェル・ジョージももうこの世にいないわけだし(笑)。

山本:あの頃、外貨の持ち出しうるさかったんだけど、ちょうど上手い具合にシンコー側のコネクションによって切り抜けることが出来たんだよね。だいたい、もともとの予算が少なかったんで、僕が毎日ダウンタウンの銀行通いして交渉してさ。何とか小切手を振りだしてもらって支払いして。それで話が決まったんだ。
 でも、ローウェルとビル・ペインなんて友好的にしてくれてさ。彼らは音楽を作るときはギャラなんて関係なくて、自分の全神経を集中して作業するからね。最高のものを作ったんだよ。

松永:日本から山本さんが連れてきたのがはっぴいえんどだった、っていう部分もありますよ。日本で最高のものを連れて来たんだから。

大江田:そのとき日本から行ったのは三浦さんとメンバーと・・・。

山本:僕でしょ。それから中村誠っていうシアター・グリーンにちょくちょく顔出してた男と。あともうひとりいたね。風都市ではっぴいえんどのマネジメントやってた上村律ちゃん。

大江田:カメラマンとか。

山本:いや。ロスではカメラマンはいなかった。その後、彼らが向かったサンフランシスコではしっかりしたのが付いたけどね。だから、あのときのロスでは僕が撮ったスナップ写真しか残ってない。・・・そうだ。写真が撮れるから、って言うんでもうひとり連れてったヤツがいたんだけど、そいつがちゃらんぽらんで駄目だったんだ。

大江田:サンセット・サウンドはサンセット大通り沿いなんですか?

山本:うん。有名だよ。ストーンズの連中とかもやってるし。あのときはアパートから歩いてレコーディングに行ってたね。

松永:あのとき、あのレコードに入ってた大瀧さんの曲は、新曲を用意出来なくて、現地で作ったっていうことですが。細野さんは『HOSONO HOUSE』の構想があったから、あんまりストックを出したくなかったのに出しちゃった、とか。

山本:大瀧君は確かに作詩は現地で松本隆に頼んでたね。細野君は「風来坊」とか「相合傘」とか、ストックから持って来たんじゃない?

松永:「さよならアメリカさよならにっぽん」ってキーワードはヴァン・ダイクが提案したものなんですか?

山本:いや、あれはもともとあったもの、て言うか、メンバーの誰かの心の中にあって、それをあっちでみんなでまとめた話だったと思うよ。それを、ドロドロにああいう風にしたのがヴァン・ダイク・パークス。あいつも、もうラリっちゃってて、アッパラパーで(笑)
 はっぴいえんどのメンバーにしてみたら、バッファロー・スプリングフィールドに始まってアメリカに憧れてきた部分と、自分たち自身であるはっぴいえんどを、このアメリカの地で一緒に卒業する、っていう意味合いだったんじゃないのかな。だからさ、ジム・メッシーナがいいな、って彼らが最初に言ってたのも、ヤツがバッファローにいたからなんだよ。

松永:それもバッファローのラスト・アルバム『ラスト・タイム・アラウンド』を事実上作った人物ですもんね。

山本:バッファローのアメリカにさよならして、はっぴいえんどのにっぽんにさよならして。それが、それぞれの自分たちの音楽の旅の始まりだった。あのレコーディングのとき、そんな風に僕は感じてたな。
 だけど、ヴァン・ダイクとかアメリカの連中は「さよならアメリカさよならにっぽん」録りながらでも結構いい加減なこと言っててさ。「じゃあメキシコがいいよ、今度は」とか真顔で言ったりしてて(笑)。何考えて言ってんだか(笑)。はっぴいえんどの連中も「判ってくれてねえなあ」って笑ってたよ。ワハハハハハ。

 

大瀧詠一はレコードをめくるのが速かった(笑)

大江田:ロスを一番喜んだのは誰だったんですか?

山本:誰だろうねえ。喜んだって言っても・・・。松本隆なんかリズム録りが終わったら、勝手にどっか行っちゃうしねえ(笑)4人一緒に写真撮るなんて大変なんだから。オレが撮ったヤツが貴重なんだから。そうそう。あのとき、細野君、ベース盗まれちゃったんだよな、確か。

 大瀧君とはね、一緒に中古レコード屋行ったよ。彼、めくるの速いんだ(笑)そのときに1枚49セントのシングル盤やらアルバムやら彼すごく買い込んじゃって。俺がレコード用のケースを買ってあげたし、JALにオーヴァー・ラッゲージ(超過荷物)の手配もしたんだよ(笑)。あのレコード・ケース、まだ俺の家に残ってるよ。

松永:後に山下達郎さんが大瀧さんの家でフィレスのオリジナル・シングル盤を聴かせてもらって、衝撃を受けた、って話があるんですけど。じゃあ、そのとき買ったヤツがそうなんですね!『ナイアガラ・ムーン』のELEC盤の裏ジャケに映ってるシングル盤とか。

山本:ああ、そうだろうね。あのとき130枚位合わせて買ったんじゃない?
 あと、このとき、俺が松本隆に言った発言がもとで、彼はプロの作詞家になることを決意したんだよね。あれは飛行機の中だったっけ。俺、酔っぱらってたと思うんだけど。「作詞家にならないの?」って松本に言ったんだ。したら「今、世間にあるような作詞だったら、いつでも書いてやる」って。「じゃあ、証明するために書いて来い!」って言ったんだ。うろ覚えなんだけど(笑)。「はっぴいえんど語録」に確かはっきり出てると思うよ。そうだ。松本のCDボックスなんてのも、こないだ出たよね。

松永:話聞いてると、山本さんが、あのときの影のプロデューサーみたいな。

山本:いや。やっぱりコーディネイターだね。音には口出さないし。みんながいい雰囲気で作業出来るように、とかさ。ケータリングの手配したりとかさ(笑)ツアコンみたいなもんだよね。例えば、夜はどこどこのポルノ行きたい、って誰か言ったら「ハイハイ」って運転して行ってさ(笑)

松永:もともとメンバーをいつぐらいから知ってたんですか?

山本:いや。個人的な付き合いというのは最初の頃は無い。エイプリル・フールでも柳田ヒロとかの方が付き合いがあったかな。
 オレが本当にはっぴいえんどの連中と付き合うようになったのは、やっぱり2枚目『風街ろまん』出した頃からだよ。それまでは、単なる観客であり、レコードのファンだったわけで。
 で、解散しようか、とか言ってるときに僕が三浦ちゃんから相談されて、それからだから。メンバー全員と人間的に付き合うようになったのは。松本隆と会うと、未だにアイツ「はっぴいえんどって、いつやったっけ?」とか、わざと全部オレに訊くんだけどさあ。「何やってたっけ?」とか、しらばっくれてるんだか、僕を立ててくれてんのか判んないけどさぁ(笑)。

松永:今でこそ若い人たちに受け容れられてますけど、当時「売れてた」とは言い難いんですよね。

山本:所詮初めはURCだから。URCってのは、会員になった人に配るのと、後はコンサートのときの手売りとかだからね。そう言や小倉エージ(当時は小倉栄司)だもんな、1枚目のディレクター。
 2枚目はキングのスタジオでレコーディングしたんだよ。それでアルバムはURCだけど、シングルはキング・レコードから出たりしたんだ。あのとき、16チャンネルのテープレコーダーなんか無かったのを、8チャンネルのを2台つなげて16チャンネルにして使っちゃったからね。日本初の試みだよ。それで三浦ちゃんが大目玉くってね。金かかり過ぎだって。今からしたら信じられないけど、実績の無いバンドだったんだから。でも、当時の日本でそういうアイデアを持ってたってのは凄かったよね。やっぱ、あれは大瀧ちゃんのアイデアだったのかな。
 大瀧詠一はねえ、レコーディング風景とか見てると、それだけですごいワクワクしちゃうんだって言ってたね。ビートルズに対しても、ジョージ・マーティンがレコーディングで、あの古いフェーダーを上げてるとこ見るのが一番ワクワクしちゃってどうしようもないんだって。あの人は、調整卓の前に座ってるだけで一生いられるんじゃないの(笑)。

松永:ロスに話戻りますけど、何かが終わってしまうっていう切なさみたいなものは、みんなには無かったんですか?

山本:みんな仲悪かったわけじゃないんだよ。だけど、何かが終わってまた新しいものが始まる、って感じだったね。茂なんかも、ローウェル・ジョージに会って開眼したんだよ。「ああ、スライドってそうなんだ。オレの間違ってた」って。いや、間違ってはいないんだけど。目の当たりでローウェル・ジョージ見ちゃったからね。見ちゃいけないものを見ちゃったんだよね。それで、75年に『バンドワゴン』作ったでしょ。あのとき、僕の紹介状持ってアメリカ行ったの。それが功を奏したかどうかは判らないけれども、キャシーとかがコーディネイトをかなり協力してくれたんだよね。
 そう。何かが終わって、また何かが始まるんだ。日本のアーティストがアメリカでレコーディングするっていうのも、そうだよね。もちろん、それまでもテンプターズとか森山良子とかあったけどさ。でも、本当の意味での始まりっていうのは、はっぴいえんどのアレからなんだよね。僕にとっても、あそこから関係が始まってるものが大きいし。
 茂もそうだし。シンコーではチューリップもやった。矢野顕子の『JAPANESE GIRL』のときにリトル・フィートとやったのも、あそこから繋がってるんだよね。それこそ、目黒のモーリ・スタジオから。あのとき、俺、アメリカに居て、空港に矢野夫婦を迎えに行ったりしたんだよ。高田渡の『Fishinユ On Sunday』でヴァン・ダイクに参加してもらったのもそう。ティン・パン・アレイとやってた佐藤博の『スーパー・マーケット』でエイモス・ギャレットに来てもらったりしたのも、そうだよね。この辺の話は、また別の機会を設けて、ちゃんとやっときたいよね。

 

「ディラン」で寝転がってた西岡恭蔵

 

松永:はっぴいえんどから少し話は戻るんですけど、「日本ロック&フォーク大全」って本を読んでたら、朝妻一郎さんのインタビューで、フォーク・クルセイダーズの出版権で、シンコーや他の会社に勝った、って話が出てました。当時のフォーク・シーンとの絡みって、どんなものだったんですか?

山本:シンコーはマイク真木とかブロードサイド・フォーも持ってたんだよね。フィリップス系のGSもやってたし。フォークルは67年かな。京都でさ、フォークルが解散コンサート(当時アマチュアだった彼らはこのコンサートで解散するつもりだった)をやったのを水上はるこが見に行ったんだ。それでね、自主制作盤を買って来たんだわ。それをミュージックライフの編集部の隣の試聴室のドアをばぁーっと開けて「こんなの買ってきたんだ、聴こうよ」って。で、聴いたら、その曲が「帰ってきたヨッパライ」だったんだよ。それを草野さんが嗅ぎつけて来て、「何だこれ?これ面白い!これだ!」って言って、神戸孝夫ってのが即、会いに言ったんだけど、一歩遅くて。PMP(現フジ・パシフィック音楽出版)の朝妻一郎に版権を取られちゃったんだ。それで大ヒットしちゃってさ。草野さん、悔しがってたなあ。
 あの頃、関西のフォーク・シーンってのは、メッセージ色の強いものとかが受け入れられ出した頃で、だから東京の友部正人とか高田渡とか、みんな大阪に歌いに行ったんだよね。東京には、まだそんな場所が無かったんだ。大阪の梅田地下っていうシーンがあって、それがあってから新宿西口広場のフォークゲリラなんだよ。高田渡なんて、京都の人間だって誤解されてたけど、東京だもんね。「三条へ行かなくっちゃ〜。三条堺町のイノダってコーヒー屋へ」って歌ってたし。あの「珈琲不演唱(コーヒー・ブルース)」。あれ、ミシシッピ・ジョン・ハートだけどな(笑)。

松永:あの曲の入ってるアルバム『ごあいさつ』は当時、かなり売れたそうですけど。

山本:うん。東京で、ああいう音楽が売れた、ひとつの走りだよね。アウト・フォーク。いいねえ。知ってる?キング・レコードの教養にいた三浦光紀が勝手に作った「アウト・フォーク」っていうレーベルみたいなものがあって。

松永:教養っていうことは・・・?

大江田:童謡とか学芸的なものを出してたのに紛れて始めたんですよね。

山本:校歌寮歌集とかね。で、一番最初に出したのが小室等の『私は月には行かないだろう』。2番目が高田渡なんだよ。

松永:それが後のベルウッドになる、というわけですね。

山本:そう。それで、その頃になると広島フォーク村をやってたよしだたくろうも出てきたりして、だんだん東京にも人が集まり始めて。関西は関西で独自のシーンを作ってゆくようになったんだ。

松永:関西と言えば、あの「ディラン」に行かれたことがあるそうですけど。

山本:西岡恭蔵が『ディランにて』ってレコードを作ったでしょ。その前だよな、行ったのは。大阪に「ディラン」って名前の、みんながタムロしてる喫茶店が出来たって聞いて。
 大阪にたまたまいたときに、そうだ「ディラン」行ってみようと思ったんだけど、場所がどこだか判らないじゃない。それで、イサっちゃん(中川イサト)の実家の電話番号を知ってたんだよ。どういうわけか。イサっちゃんはすごい昔からの知り合いなんだよ。そこに電話したらお母さんが出て、行き方とか電話番号とか教えてくれたんだよ。それで訪ねてったんだ。
 中入ってさ、椅子に座ったらさ、隣の椅子の上にシートがくるまってて。「そう言えば、西岡恭蔵さんは店によく来るんですか?」ってマスターに訊いたら、「そこのシートの中で寝てるのがそうだよ」(笑)で、恭蔵がむくむくっと起きてきて。でけえー身体でさ。それが僕と西岡恭蔵との出会いなんだ。それから酒呑みながら朝までしゃべってたんだよね。狭い店でさ。とにかくいきなり恭蔵と会って、一晩中呑み明かしたりして朦朧としてたもんだから、よく覚えてないんだよね(笑)

大江田:アンチ音楽舎(URC)系の人たちのたまり場だった、みたいなところもありましたよね。

山本:ロックっぽいフォークって言うのかな。そういう流れが後に福岡風太のやった「春一番」コンサートに繋がってくんだよね。で、それとは別に新しいロック系の連中がお祭り広場でやったのが「8・8ROCK DAY」ってわけ。大阪ではその2つの派閥が出来るわけさ。

松永:「8・8」って言えば、サウス・トゥ・サウス。

山本:それに大上留利子のいたスターキング・デリシャスとか。

松永:ソウル寄りってイメージありますよね。

山本:そうそうそう。で、もっと汚ねえカッコしてメッセージしちゃってるのが「春一番」系でさ(笑)

大江田:でも、派閥って言っても、対立してるわけじゃないんですよね。

山本:そう。別に仲悪かったわけじゃない。言葉のニュアンスとか、センスには違いがあったけどさ。「8・8」にも「春一番」系の連中がゴボォーってやって来て、ヤアヤア楽しんでったりするんだよね。大阪っていうところがそういう土地柄なんだ。

 

ヤング・ギターの転機、僕の転機

 

大江田:天辰保文さんがヤング・ギターに入ってきたってのは、いつ頃でしたっけ。

山本:74、5年くらいかな。俺ね、天辰の影響って大きいんだよね。特に、ウェスト・コースト系の音楽についてはすごく教えてくれた。天辰はね、「ぷらす・わん」やってたんだよね。

松永:「ぷらす・わん」ってのは?

大江田:ミュージック・ライフはアイドルっぽいじゃないですか。だから、よりシリアスなロックを扱おうって雑誌で。

山本:いわば、シンコー版のニューミュージック・マガジンみたいなね。73年創刊で、キャッチが「4チャンネル・エイジのロック・マニアに送るぷらす・わん」。何だそりゃ? 意味判んないな! ワハハハハハ! こんなの引っぱり出されたら天辰なんか恥ずかしくって倒れたまま立ち上がれなくなっちゃうんじゃないの(笑)。

大江田:短命だったんですよね。

山本:まあ、あんまり(売れ行きが)よくなくって。で、終わっちゃって、天辰が僕のとこ(ヤング・ギター)にまわってきたの。それで、一緒にやってるうちに、彼にいろいろ影響されてさ。まあ、こっちは68年にアメリカに行っちゃって、彼よりも大事なところを掴んじゃってるっていう自負もあるんだけどさ(笑)。だけど、彼はウェスト・コーストの音楽については博士だったね。僕の師匠だった。リンダ・ロンシュタットの写真眺めて、一晩中ぼーっとしてられるってヤツだったんだから(笑)。
 76年に天辰連れてロサンゼルス行ったんだ。ファイヤフォール取材したり、デヴィッド・リンドレーと一緒に寿司食いに行ったり(笑)でまあ、彼はずっと憧れてたアメリカに行って、ぶっ飛んじゃったんだよね。あれが彼の転機だったんじゃないかな。彼もまた、見ちゃいけないものを見ちゃったんだよね(笑)いけない空気を吸っちゃったし、匂いを嗅いじゃったんだよ。

大江田:天辰さん、ジャクソン・ブラウン好きでしたよね。

山本:そう。小倉エージと天辰と北中正和で「デヴィッド・リンドレーと仲良くなってジャクソン・ブラウンに会う会」(笑)なんてのやってたな。確か長門(芳郎)もいたな。ホンットにやってたんだから。真剣だったんだから。
 でもね、俺がね、ロス行ってね、会って来ちゃったんだよ、ジャクソン・ブラウンに!そんで、アイツラに殺されそうになったんだから。確か、75年にJDサウザーにさ、「レコーディングに行かない?」って何気なく誘われてスタジオに行ったらさ、居るんだよね。そこに。JDに会うこと自体がさ、あいつら「チキショー!」って思っちゃうのにさ。

松永:すごい神格化ですね。

山本:いや、もう神だよ。あの当時で言ったらねえ。

大江田:あの頃のジャクソン・ブラウンは詩も豊かだったし、LAの音楽の最良の部分があったし。とにかく、彼について素晴らしい文章を書ける人が一番偉かったんですよ。

松永:そんな風にヤング・ギターが70年代に関わってきたアメリカの音楽とか日本のフォークとかの流れって、80年代を迎えて行くにあたって、変わってゆきますよね。現に僕が中学生だった80年代アタマって、ミュージック・ライフもそうだったように、洋楽雑誌はいわゆるヘヴィーメタル・ヒーロー全盛だったと思うんですけど。山本さんの中では、そういう流行って言うか、若い人たちの要求ってどう受け容れて行ったんですか?

山本:・・・・いい質問だ(笑)。
 結局、僕らは「飴の中に何かがある」って考え方で雑誌をやって来たわけなんだけど、その自分たちとしては大切に思ってる「何か」が大きくなっちゃって、甘い飴の部分でのダマしがあんまり効かなくなることもあるわけさ。もちろん。それで売れるのが一番いいんだけど。やっぱり雑誌でメッセージしちゃうとダメなんだ。それが好まれる時代もあったんだけどね。
 それで、ヤング・ギターもそのまんまニューミュージックとかウェストコーストの音楽をマジメに追っかけてても、結局どっかで飽きられちゃう、って思いに至ったんだよね。その究極が来たのが70年代後期なんだよ。77、8年あたりには「もっと先見てやってかなくちゃなあ」とか「オレたちメッセージしすぎたのかな」とかビジネス的に考えざるを得ない状況になって。でも、いろんな大事なものは捨てきれないじゃない!それで俺、究極のものを一冊作ろうと思って、自分のやってきたものの中での最高のものを、練りに練った切り口とかも計算して作ったんだ。みんなの評判はすっごく良かった。これが売れないわけない!って。・・・でも、売れなかったの。結果的に。
 で、そんなときに六本木のワーナーに行ったら、今はSONYのディレクターやってる藤倉がさあ、「山本さん、こんなの来たんだけど聴いてくれる?」って聴かされたのがヴァン・ヘイレンだったんだ。で、俺、直感でこれ「すっげえー」って思ったの。僕の転機のきっかけになったのはヴァン・ヘイレン。キンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」をあんなギターのテクニックと勢いでやっててさ。俺ぶっ飛んだわけ。80年代って、これアリだな、って。これと心中しよう!って思ったわけ。ヤング・ギターを続けてゆくのであれば、今までの時代を捨てる、まあ、捨てるっていうのはアレとしても、変えていこう!そう思って。それで研究し始めて、ロックっていうものを見直してみて。79年にはヴァン・ヘイレンが来日して、インタビューして、大特集したら(ヤング・ギターの売れ行きも)上がってきたんだよ。それで、ちょうど80年くらいが日本のヘヴィーメタルも面白くなり始めるかどうか?って頃でさ。じゃあ、自分たちでシーンを作っていかなきゃいけない、ってことで81年に東京で「ジャパン・ヘヴィーメタル・フェスティヴァル」てのをやったんだよね。それを大阪でも「ジャパン・ヘヴィーメタル・ファンタジー」ってタイトルでやって、ラジオとかTVとかも使って、仕掛けて行ったんだよ。そしたら、時代もそういうものを要求してたってことなんだよね(笑)。だから、本当、転機だよね。
 不思議なことに、俺にとって何かが始まるのって必ず69年だったり79年だったり99年だったりするんだよ。8の年に必ず何かが終わって、また新しいものが翌年から始まる。69年にヤング・ギター作ったでしょ。79年にはヴァン・ヘイレンだよ。去年(99年)には、音楽学校の副校長になったりしてるしさ。だから、2008年にオレ死んじゃうかもしれない(笑)でも、それを乗り越えれば、次の2009年にまた何か始まると思うんだよね。

 

「点」じゃなくって「線」を遺していかなくちゃ

 

大江田:随分音楽雑誌も様変わりしましたよね。作り方も変わったし、執筆陣も変わったし。最近は雑誌不況と言われて久しいですが。

山本:いやあ、そりゃあ誰もが危機感は感じてるんじゃない。その辺のJ-popとか追っかけてる雑誌も、もうこれ以上は伸びないし。次を考えないと。その辺はオレは体験的に判ってるからさ。でも、ヤング・ギターはまた上がってきてるんだよね。だから、どっかで時代が本物志向になってる? なっててくれればいいんだけどさ。
 僕の教えてるTCA(東京コミュニケーション・アート専門学校。この4月から音楽&エンターティメント部門が独立して東京スクール・オブ・ミュージックに名称が変わるそうです)の生徒でもさ、僕のブルース論の講義とか本当に真剣に聞きに来てくれて、きちんと基本を学ぼうとしてる子たちがたくさんいるんだよ。その場その場の流行の「点」じゃなくて、ちゃんと「線」として繋がるものを教えて行く、っていう責任も僕らにはあるしね。だけどまあ、こないだ授業で日本のロックの歴史みたいなこと語ってみたら、何か寝てる子もいたな(笑)。女の子が「先生、難しくて判りませーん」とか言うしね。本当はビデオとか用意してやったら、・・・・余計寝ちゃうのかな? 

松永:いや、でも山本さんの秘蔵ビデオとかだったら、隠れ大人受講生が増えちゃうでしょ。

山本:いや、俺、こういうときが来るんだったら、ちゃんと整理しときゃ良かったな、って思うんだけどね。

松永:映像となるとテレビ局にもあんまり残ってないって言いますよね。

山本:あれはテレビ局が悪いよね。こないだもあるテレビ局行ったらね、ディレクターが「大変なんですよ!」って言うんだよ。今までのオンエアした在庫のビデオを、倉庫一新で全部捨てられちゃったんだって。冗談じゃない!俺も三回くらいひっくり返っちゃって。それを拾ってると叱られちゃうんだって。でも、こっそり捨て場からいくらか拾ってきたんだって。僕がもらい受けたいくらいなんだけど、そうすると今度は権利の問題とかが出てきちゃうから、じゃあ捨てちゃえ、って。価値観の判らないヤツがそんなことしちゃうんだよ。メディアは何かを遺していかないといけないのにさ。

 

    *    *    *    *    *       

 

松永:どうも、長いお時間、お話聞かせていただいてありがとうございました。最後の質問なんですが、今まで取材とかでいろんな人に会って来られたと思うんですが、忘れられない人っていますか?

山本:・・そうね。だから、俺の中ではやっぱりエディ・ヴァン・ヘイレンとか忘れられないよね。でも、その中でも特別なものって言うと、レス・ポールかな。あれは89年。ヤング・ギターの20周年記念で会ったんだ。ニュージャージーの彼の家まで行ったんだ。
 まだ現役で、Fat Tuesdayで月曜の夜だけライブやってたのを、あのときは特別に2晩やったのか。

大江田:どうでした?

山本:いや、もう、すごいよ。だって、あの音だもの。あの歳で指もよく動いてたし。何たって人間国宝、いや、地球上の宝物だからね。

大江田:ロックはもちろん、カントリーの人にとっても、ジャズの人にとっても、偉大な存在ですよね。ハイファイでも彼の存在は別格ですよ。

松永:アイデアマン、って言うか、クレイジーなところもあるし。元祖多重録音だし。古い写真で見たことあるんですが、今でもあんな機材の山の中に住んでるんですか?

山本:そうそうそう。家中がオモチャ箱みたいなもんなんだ。古いアンプとかいっぱい転がってるし。汚ねーんだよ、家の中。でも、ガレージの上を改装したスタジオはキレイだったよ。

松永:何か話してて印象的なこと言ってました?

山本:・・・うーん。あのね、最後にね、「俺は残り少ない人生を人工衛星に乗ってどうのこうの」ってすごいイイ言葉があっったんだよね。何だったっけ・・・・・。忘れちゃったなあ!(笑)ま、いいか! これで終わりの方が面白いよ! ワハハハハハハハ!

 

(2000年1月25日 シンコーミュージック7F 「ブレイク」にて収録)

 

 

山本隆士
山本さんとは大江田が大学生時代からのおつきあいです。となると25年以上のことになります。柔らかい物腰は昔のまま。なんだかつい甘えてしまって、お願い事をずいぶんしてきてしまったような気がしますが、このインタビューも快く受けて下さいました。人柄がそのまま浮かび上がってくるようなお話で、とにかくおもしろい。ご本人も「こういうこと、やっといた方がいいよ」とおっしゃって下さって、ぼくらもずいぶんと意を強くしました。(大江田)

| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |

▲このページのTOP  
▲Quarterly Magazine Hi-Fi index Page