20世紀に連れてって

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第5回 小林径 
「お客さんの判らないようなところで勝負するのってカッコワルイ」

 

 「次は小林径さんでいきましょう」
 大江田さんにそう言われて一瞬、耳を疑った。だいたい僕は自他ともに認める「Two Left Feet」(踊り下手)なんだ。そんなのが、現役バリバリのクラブDJである小林さんに、何を訊いたらいいんですか? いきなり及び腰。
 そうだ。でも思い出した。リズム&ペンシルで「お茶とロック」なんてテーマを考えていた頃、小林さんのとびっきりの発言、ネタに仕入れてた。大江田さんも、何だかどうしても訊いておきたいことがあるような、足の裏がむずむずした感じを僕に伝えてくる。こりゃあ、いっちょう乗っかってみますか!
「ハイファイの若いお客さんは、径さんのDJに男気を感じる、って言うんですよ」。大江田さんは言った。インタビューでの小林さんの、ぽんぽんとテンポ良く答えを返してくれる小気味の良さは、確かにどこかそういう切れ味を感じさせる。言葉を探す間が味になる人、というのもいるけれど、ためらうことなくどんどん言葉を継いでゆき、そこから突破口を見出してゆく。しかも、それが耳障りなおしゃべり、というのではなく、ちゃんと誠実なエンターティンメントを意識しているところ。体育会系とも美大系とも違う、いじいじしてない文系が持つ感覚のキャッチ&リリースの判断力って言うのかな。その歯ごたえの良さ、迷いの無さを、出来れば昭和30年代のいかした大衆小説か、岡本喜八あたりの和製ギャング・ムーヴィーみたいなテンポで構成者としては伝えられるよう。僕も言葉DJになったつもりで、臨んでみました。

 

 

 

ボクは「髪結いの亭主」の息子でした

松永:いきなりお年のこと訊いてしまいますが、1959年生まれですよね。

小林:ああ、もうバレてるんですね。

松永:マズいですか?(笑)

小林:いや。マズくないですよ。ただ、クラブでは女の子にもてたいんで(笑)
ハイ。

松永:一番最初の音楽体験というのを訊かせていただけますか。

小林:そうですねえ。記憶っていう点じゃ、もっと前になるかもしれないんですけど。一番最初に買ったアルバムってのは、T-REXの『エレクトリック・ウォリアー』だったんですよね。中学一年のときで、ちょうどリアルタイムで出てたのを。

松永:マーク・ボラン、かっこいいじゃないか、って?

小林:うん、何かね。最初はまだそこまで知らなくて。友達に勧められて、買った感じだと思うんですけど。「マンボ・サン」っていう曲から始まるんですけど、あの曲がすごいカッコイイので、どアタマからハマったんですよね。やっぱり(衝撃的な)アルバム体験を最初に買ったアルバムでしてしまったっていうのは、結構ありますね。
 もっと最初の、幼児体験ってとこまで遡ると・・・。ウチの親父が物書きだったんで。ちょっと変わり者だったんですよ。それで、いわゆる音感教育みたいなのをされて、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を0歳の頃から聴かされて育ったんで。それで、それは実際、歌えましたね。

松永:意識しないで口から出てくるみたいな。

小林:親父が替え歌付けて、日本語で(笑)。で一緒に歌ってたりして。そういう感じで刷り込みされましたね(笑)。あと覚えてるのは、「ぼくの伯父さん」の7インチが家にあって、それが好きでよく聴いてましたね。

松永:お父さんのお話、差し支えなかったら訊かせていただいてもいいですか?

小林:ああ、何かもう要するに変わりモンで(笑)。要するに「物書き」って言ってるんですけど、ほとんど実状はオフクロのヒモですよね。だから、僕にも「好き勝手やれ」みたいな感じでしたしね。

松永:お母さんのヒモ状態でありながら、息子には「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴かす、っていうとこだけは譲らない、っていう(笑)。

小林:そうそう。そういうとこだけは全部イニシアチブとって(笑)。
 オフクロの仕事は美容師で。だから、ほんと「髪結いの亭主」。オフクロが仕事してる間、ウチの親父はオレを連れて、映画館に行って。何か、そこに行くと、オレが泣きやむらしくって。だから、映画を子供の頃は異常に見てましたね。2歳とか3歳とかの頃。

松永:子供映画とか怪獣映画とか?

小林:もう何でもですよ。ヤクザ映画なんかもすごく多かったですね。洋画もいろいろありましたし。

松永:お父さんもすごいですけど、それを認めてるお母さんもすごいですよね。
腹が据わってるというか。

小林:いやー、どうなんでしょうねえ。オフクロは、普通だと思うんですけど。
でも、オフクロの方が怖かったですよ。親父より。

松永:よく叱られました?

小林:仕事場に入ると叱られたりするんで。立場逆ですよね。親父と。

松永:お母さんの方が仕事師の顔してる、という感じですか。

小林:そう。親父の方がオフクロみたいな感じで。
 群馬県の高崎ってところが実家なんですよ。で、親父がそんなだから、その辺の田舎のエセ芸術家みたいな人がいっぱい家に集まってきて。子供は早く寝かされるじゃないですか、そういうときって。でも、どうしてもガヤガヤしてるから起きちゃって。下行くと、みんな親父の友達とか「まあ、来いや」とか言って、子供だけど大人の話に勝手に加わる、みたいな。まあ、そんなにしゃべったりはしないんですけど。
 そうすると、「学校の教員はロクでもない」とか、そういう話をしてるから(笑)。それで、ヤな人間が出来上がった、ってのはありますね(笑)。

松永:実際、小学校上がって、そういう刷り込み効果があったんじゃないですか?

小林:だから、学校の教員とは、ホントうまくいかなかったですよ。どうしても、尊敬しないじゃないですか(笑)。ハナからそういう刷り込みがあると。

松永:家では、人の道からハズれたような人たちをロール・モデルとして見てるわけですもんね。

小林:そうですね。だから、学校にどうしても面白みが感じられなかったですよね。

松永:話は戻りますけど、中学生のときにT-REXで衝撃を受けてたりするわけじゃないですか。「よし!」と思って、ギターを手に取ったりはしなかったんですか? 僕は「よし!」と思って、レコード屋に次のを買いに行ってたタチなんですけど(笑)。

小林:そうですね。僕もやっぱり楽器よりはレコードが最初でしたね。ま、途中からバンドみたいなことをやったりはするんですけど。パンクの時代のちょっと前で。あんまり言いたくないんですけど、布袋寅泰ってヤツと一緒にバンドをやってて(笑)彼はボクよりちょっと下なんですけど、高校が一緒で。オレの方が先輩だったんで、割といろいろ教え・・・たっていうほどじゃないんですけど、ニューウェイヴの走りみたいな変なヤツとか聴かせたりしてて。そのバンドはロキシー・ミュージックみたいなのやってたんですけど。当時はやっぱりディープ・パープルとかツェッペリンみたいなのをやるのがマトモで。ジェフ・ベックとかやってればちょっとすごい、って感じだったんで。割とボクらはヒネてましたよね。
 でもやっぱり、もともとリスナーとしてのアレが強いんで、おっつかない、って言うのかな。中二くらいで、結構いろんなジャンルに手出すようになってたし。自分の耳の方が先に行っちゃってて。それで、結局、そういう人に限って、みんな怠け者だったり、努力嫌いだったりするから(笑)。だから、耳と技術のバランス悪くなってきちゃって。バンドは止めちゃいました。

 

「DJ以前」と「DJ以降」

 

松永:「アルバム体験」って言葉がありましたけど、一枚熱心に聴き通すタイプでした?

小林:そうすね。気に入ったやつは、正座して、部屋も暗くして聴いてたりしましたよ。集中して一枚聴くのが、大好きでしたから(笑)トータル・アルバムってのが多かったでしょ。そういうのがすごい好きだったんですよ。曲の並びとかすごい気にして聴いてましたよ。

松永:何でこんなこと訊いたかって言うと、現在の小林さんのDJという立場からすると、そういうアルバムからいい曲を曲単位で取り出すっていうのはアルバムという作品の解体作業になるじゃないですか。でも、それをつなぎ合わせて、新たに流れを作り出すっていう作業には、またトータルなアルバムを紡ぎ直すような面もあって。

小林:そうですね。やっぱり「DJ以前」と「DJ以降」っていう風にボクを考えると、「現場」って感覚が自分の中に身に付いていった部分が大きいと思うんですよね。リスナーだった頃はリスナー故の思いこみっていうのがあるので、やっぱりトータル的な感じっていうのは自分の中に染み込んでいて。何となくアタマに描いてるヴィジョンとかあって。
 でも、やっぱりお客がフロアに少なかったりすると、結局、そういう場の空気を踊るように変えていかなきゃいけないんで。やっぱり「客あってこそ」っていう部分がDJ的になると大事になってしまう、って言うか。マニアックなものをかけるかけない、っていうのとはまた別に、やっぱり「踊らせたい」っていうのがあると思うんですよ。ギャラもらってるDJっていうのは。だから「現場対応」と言うか。逆に言うと、かえってチャンス・オペレーション的な(その場の偶然性に身を任せるような)面白みもいっぱいあって。そういうチャンス・オペレーションに身を任せてるんだけど、結果的にはトータル・アルバムみたいな感じにもなってるよ、みたいなのが出来たときは、自分としては調子がいいんで。でも、それがバラバラになっちゃうときっていいうのもあるんですよ。お客さんは踊ってるんだけど、自分のやろうとしたことから見ると、ものすごくばらばらになってて。そういうときはすごい自己嫌悪に陥ってる、という。だいたいそんな感じなんですけど。

松永:「DJ以前」と「DJ以降」って話がありましたけど、その境目になってる時期の話、気になります。

小林:高校卒業して、すぐ東京に出て来たんですよ。それで、そのあたりってのは、シンセとか機材とか買いまくって、現代音楽まがいの方に走っちゃってましたよね。別にインナー志向って感じでも無かったんですけどね。ニューウェイヴ全盛って時代でもあったし。ブライアン・イーノとかローリー・アンダーソンみたいな、ああいうような感じの。現代音楽なんだけど、エスニックとか、いろいろな要素が入ってるような。もともと、ひとつの徹底した方向っていうのが苦手で。必ず何か混ざってた方が好きだったから。 
 でも、結局、そういう変な音楽ばっかりやってたら、だんだんこうオレも親父みたいになってきちゃった(笑)。女に食わせてもらってたりして(笑)。周りのみんなも結構リタイアとかする感じになって。そんなときに、ああ何か仕事ないかな、って探してたら、ちょうど新しいクラブが出来てDJを募集してて、「径ちゃん、やってみれば」って薦められて。レコードいっぱい持ってるってのも知られてたし。オレもアマチュアっぽい人たちがレコードかけたりするのを見に行ったりして、「ああ、こなんだったら出来るよ」って思って。まあ、その場にいたら、みんながそう思うと思うんですよ(笑)。そのかけてた人も、別にスキルがあるってわけじゃないし。だから、そういう感じで、ボクもやることになって。まずテープ・オーディションみたいなのが軽くあって。それに通ったんで、いきなりギャラがもらえて。それがすごい嬉しかったですね。

松永:すごい。

小林:そう(笑)。それが86年の11月ですね。だから、割と年齢的には早くない。

松永:いわゆるディスコDJのボーヤみたいな時代も無く。下積みもなく、いきなりいっちゃったわけですね。

小林:そうですね。ボクはいわゆるクロス・フェーダー(注:2台のプレイヤーをつなぐミキサーに付いている、左右にツマミを動かして、双方のヴォリュームを調節、スイッチしてゆくものです。瞬時にして2枚のレコードをつないだりする劇的な効果が得られます。念のため)の世代のDJなんで。年齢的には藤原ヒロシ君とかより上なんだけど、DJやりだしたのは彼よりも後なんですよ。藤原君とか須永辰緒君とかは、ボクらの流れでのオールド・スクール、なんて言ったら怒られるかもしれないけど。ファースト・スクールっていうか、一番最初なんですよね。ボクらがちょうどミドル・スクールぐらいで。
 辰緒君なんかは今でも「縦フェーじゃなきゃダメだ」(注:縦フェーダー。一個一個のプレイヤーのヴォリュームを上下するためのものです。フェード・アウト、フェード・インを基本とした、70年代のディスコ時代から使われているものです)みたいな、職人っぽいところがあって、そう言う意味ではスキルとか巧いですよ。ボクなんかは、ホントにクロス・フェーダーのおかげで、いきなりむちゃくちゃかけてましたから(笑)。

松永:クロス・フェーダーの登場って、そんなに画期的なものだったんですか。

小林:あれは、画期的だったと思いますよ。あれがいわゆるアマチュアを大量流出させた。あれでもう「楽器は出来ないけれども、いろいろ知ってるぞ」っていう人間がみんな喜んで、オナニーし始めた(笑)。
 そう。それで、ボクがDJ始めたその頃っていうのはヒロシ君全盛時代。みんな藤原ヒロシの真似してましたね、若い人たちは。ヒロシ君がかっこいいというものを買ったりして。でも、そういう感じじゃない、自分たちのやり方を始めてた人たちもいっぱいいて。そういう意味では、ちょうど今の時代のDJの始まり、ですよね。
 ラファエル・セバーグ(UFO)がラテンとかジャズとか回し始めたり。あと、テクノっぽいのとか、テレックスとかスパークスとかスノッブっぽいのを回してて。オレもそういうの好きだから、スパークスのサードか何かからジャズっぽいの回してたら、ラファエルが来て「ああ、こんなのかけるヒトいるぅ!?」みたいな感じで知り合ったりして。あと、フェラ・クティとかアフリカものかけてたら、そういうの好きな人がやって来たりとか。そういう感じの音って、当時まだ他にはかけてなかったんですね。ラファエルとかボクとかが、かけ始めた感じで。まだロックなんかかけるのはタブーでしたから。

松永:誰もまだかけてないような、例えばスパークスとかを家から持って行ってかけよう、って思うのは、「よし、いくぞ」って言うか、新しいことやる!みたいな感じなんですか。

小林:そのときは何かちょうど、「何でもかけていい」みたいな風潮が一番出てきたところだったんですよ。ジャンル分けもされてなかったし。客も何でも踊ってたし。
 面白かったのは、今でも覚えてるんだけど、土曜日で、客がすごく入って。そこで「スペクター繋がり」みたいな、スペクター好きなヒトだったら彼を意識した曲だってことが明らかに判るようなバラードをやたらかけたんですよ。コードって言うのか、曲調って言うのか、それをロックの70年代の人がやってるようなのでスローなのをずっとかけてた。それで、客がずっと踊ってた、っていうのがあって。今では、まったく有り得ない話なんですよ。でも、あのときのあれは、今でもボクの理想って言うか。
 フロアってのは、踊ればいい、とボクは思ってるんで。まったく踊れないようなものでそういう状況が出来た、っていうのはすごく覚えてますね。みんな何が何だか判ってなかったと思うんだけど(笑)。お客さんにも固定観念が無かったんですよね。当時のお客さんは、そういう意味では一番良かったな、っていうのはありますね。今は、キャッチーな曲でしか踊らなかったり、自分が知ってる曲でしか踊らないんで。

 

茶の美学、DJの美学

 

松永:以前に僕の知り合いが小林さんに会ったときに聞いた話で、すごい印象的なのがあるんです。小林さんが言うには「DJというのは、お客さんをもてなす、という意味では茶の道に通じる」というようなことなんですけど。

小林:(笑)そんな偉そうなことを・・。

松永:「だからレコードのお皿を買うのを止めて、本当のお皿、茶器を買ってるんだよ」とおっしゃってたそうなんですけど。それを聞いたときから、小林さんは僕には気になる人物だったんです。

小林:ああ、言ったかな、そんなこと(笑)。でも、お茶はほんとに好きで。もともと現代美術とか好きだったんで、そういうのを辿っていったら、アンフォルメルみたいなことはみんな桃山時代に日本人がやってた、ってことに気付いて。そういうところからすごくハマっていったんですよね。それで、気が付いたら、そっちの方の皿も好きになってた、という。
 一時期、レコード買えないくらい買ってましたから。一千万くらい使っちゃいましたから(笑)。桃山時代のものとかを買ったりしてて。美術館にあるような箱書きとかもちゃんとしたようなのは、やっぱり三千万とかしたりするんですよ。だけど、ボクはまあ、箱書きもないようなのを自分で見つけて、ちょっとヒビがはいってるようなやつ、でも、その直しが入ってるのがまた味があったりしてるようなのを百五十万くらいで買ったりして。

松永&大江田:!

小林:あと、やっぱりお茶をやってて判ったこと、DJとすごい似てるな、と思ったことは、瞬間を捕まえるっていう部分。記録には残らなくて、記憶にだけ残る、っていうのがあって。ひとりの人を、もてなす瞬間のためだけに、庭から家から全部いじって、しかも掛け軸にメッセージとかをかけたりとかして。当然、お金もかかるし、だけど、自分のすべてを集約してその一瞬に消費しちゃおう、っていう感覚、そういうのが好きですね。

松永:一期一会ってことですね。

小林:それで、オレ、DJやって良かったな、って思うのは、それまではどっかオナニックなところがあったと思うんですよ。ナルシストって言うか。自分は「知ってる」ってことで、「教養がある男だ」ってどっか思ってたりとか。でも、DJやることによって、そういうプライドみたいなのを一番最初にズタズタにされちゃって。踊んなくなっちゃうんで、お客が(笑)。実際、踊らないとボクらは食えないわけで。だから、すごいムカつきながらやってるってこともしょっちゅうあって。
 でも、そのうち、「客に合わせる」とか「エンターテイン」ってことじゃなくって、「通じる」っていうのと「通じない」っていう世界があるってことが判ってきて。人間って自分のやったことがどういうかたちでもいいけどコミュニケーションとして通じないと、やっぱりダメなんだなあ、って。そういう単純なことが昔は判ってなかったなあ、って。「カッコイイもの知ってればカッコイイヤツだ」とか、「カッコワルイもの好きなヤツはカッコワルイヤツだ」とか、どっか思ってた。そういうこととかじゃなく、ボクがいいと思ったようなものは、なるべく判ってくれ、みたいな。「判ってくれ」と言うより、それで楽しんでくれると嬉しい、っていうような気持になってきたんですよね。

松永:それが、「おもてなし」の心っていう部分に繋がってゆく、と。

小林:そうですね。お茶の道なんかでも、「その人が判らないようなことをやってはいけない」っていうことを言ってるんですよね。その人のレベルに合ってて、そこで一歩ハズしてる、とかはアリなんですよ。で、そのレベルで、敢えて「その人にはどうかな?」って思うようなところを突く、みたいな、そういう真剣勝負なんですよ。相手がまったく判らないレベルでドン!ってやって来て「どうだ!」っていうのは逆にカッコワルイ。そういうのがお茶の美学にはすごいあるんですよね。それは基本的に「勝負」じゃない、って。判ってないやつにそれをやるっていうのはルール違反、ただ自慢したいだけ、みたいな。もてなしの中で、いかに相手が何をしようとしてるかを察しようとするバトルみたいな、そういう感じなんですよ。

 

グルーヴの行方

 
大江田:ひとつ訊いていいですか? あるとき、小林さんが「グルーヴ・マーチャント」って背中に描かれたTシャツを着てて。その「グルーヴ・マーチャント」ってメッセージが僕はすごく衝撃的だったんですよ。何で「ソング・マーチャント」」でも「メロディ・マーチャント」でもなく、「グルーヴ・マーチャント」だったのか、というのを小林さんの口から聞けたら嬉しいんですけど。

小林:「グルーヴ・マーチャント」っていうのは、その名前のレーベルのレコードをよく買ってたんで。ジャズ・ファンクにすごい傾倒してた時期があって、その意味合いから転用した部分もあるし。何となく、自分の中では、アーティスティックなものが好きだったんだけど、結局、女に食わしてもらってるんで、DJっていう商業的なことをやってる自分に対する皮肉みたいな部分もあるし、でもそれで良かった、っと思ってる面もあったり。

大江田:昔、小林さんがハイファイにいらっしゃったときに、クラフトワークの「カリキュレイター(電卓)」を指して「グルーヴがある」っておっしゃってたときがあって、ボクはすごいびっくりして。ノスタルジーとかメンタリティとかが音楽には重要な要素としてあって、アメリカのフォーク・ミュージックとかずっとそうやって作られてきてるし。そういうものが90年代に入って通用しなくなって、「もういいんだ、世の中はグルーヴなんだよ」って言われた気がして。そのときに「グルーヴ・マーチャント」のTシャツを見たから、余計に印象に焼き付いてるんですけどね。
 黒人音楽とか白人音楽とか、ロックとかジャズとかいう縦ジャンル的じゃなくて、横ジャンルっていう部分で、90年代以降、一番強い言葉っていうのは「グルーヴ」だと思うんですよね。イデオロギーでもないし、フォーマットでもないし、トラディションでもないし。「グルーヴ」って言葉を発見する、って言うのは、音楽にとって大きな意味があると思うんですよ。

小林:そうですね。ボクには「グルーヴ」っていうのは、やっぱりDJになってから出てきたもので。グルーヴがないとやっぱり踊らないし。「踊らせる」っていうのは音圧とかで可能なんですよ。でも、それとはまったく違って、グルーヴって上物(うわもの)にもあって、「揺れ」って言う感じとか。
 昔、ミュージック・マガジンとか読んでた頃は、中村とうようとかが「アフリカがどうこう」とか言って、そうじゃない音楽を敵視したりして、「何言ってんのかな、このオッサン」みたいな感じだったんだけど(笑)。今、考えると、彼が言いたいこともグルーヴに近い、って言うか。ま、グルーヴだけを言ってるんじゃないけど、何かそういうグルーヴっぽいものが好きなんだな、っていうのが判るような。
 でも、中村とうようさんとかって、アルバム全体とかで批評してると思うので、何かちょっと印象批評みたいな感じがして。ちょっと理屈っぽくなっちゃうかもしれないけど、蓮見重彦とかの映画の見方みたいな、ショット全部を覚えてたりするじゃないですか。ボクはDJやるようになって、割とそういうのに近い聴き方をするようになったんですよね。DJって、パーツで聴ける、っていう部分があるんで。そうすると、中村とうようが「良くない」って言ったアルバムの中にも、すごくグルーヴィな曲があったりして。で、そのグルーヴでお客さんが踊って、ボクもすごい自分の聴き方に自信を持つようにもなって。
 やっぱり、最終的にグルーヴっていうのはアフリカ的なものなんだと思いますよ。もちろん白人のグルーヴっていうのもあるとは思うんだけど。クラシックでも、グルーヴはあると思うんですよ。弦の感じとか。

松永:「印象派」じゃなくて、細かいところを見てゆく感覚、ギターリフとかハイハットとか、そういう細部を掴んでゆくところにグルーヴを見る、っていうのがDJらしい発言ですよね。職人的に見抜く感じって言うのかな。

小林:何かラーメン屋のオヤジチックなところもありますよね。こっちとこっちを比較して、こっちの方がグルーヴィだ、って決めてゆくみたいな、具体的な感じ。

 

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松永:踊りに来る世代っていうのは、常に入れ替わってゆくわけじゃないですか。

小林:そうですね。結局、クラブの面白いところっていうのは、まだバンドだと何となく神話が蓄積されてる感じとかあるじゃないですか。何かこう、ムーンライダーズとか偉いのかな?みたいなところ(笑)。

松永:面白いのかな?と疑問に感じつつも、ちゃんと聴かなくちゃ、みたいな部分で付き合う、っていうのか。

小林:そうそう。でも、クラブは、世代のワン・クールが終わるとDJの知名度が常に一定じゃない無い限り、完璧イチからやり直しなので。良くも悪くも、相手のニーズに合わせる、って言うより、引っ張られる、って言うか。もう踊んないですから。自分が気に入らないものだったら。だから、そういう感じを何となくごまかしながら、自分の世界になるべく持ってゆく、っていうのがこっちがようやく出来た頃になると、その世代はクラブは卒業しちゃって、来なくなって(笑)。ゼロに必ず戻っちゃうんで。財産的な蓄積にならないんですよね。必ずまたイチからやり直さなきゃならない。

松永:アメリカ行くと感じるんですけど、踊りでも音楽でも、一生の趣味として付き合う、みたいな感じはないですよね。

小林:異常に少ないですよね。やっぱり、クラブっていうのは一種の消費過程と言うか、ある年齢におけるプロセスみたいなもので。踊りたかったり、音楽聴いたり、詳しくなりたかったり、みたいなひとつの学校みたいなものですよね。ある程度通って、大体消費した、って感じになって、それで卒業して、リスニングの方に向かう、ってのが多いと思いますよね。
 だけど、ボク自身は、何て言うんですかね。常に若い人と一緒にいられて、そういう意味じゃ、若い女の子とデート出来たり(笑)、とか。そういう楽しさと、ちょっとピーターパンみたいな、自分だけ歳を取らない、みたいな。現実的な大人の社会から取り残されてる(笑)そういうような感覚ですよね。そんとき遊んでた女の子が急に銀行に入って、「まだやってんの?」(笑)とか言われたりして。「絶対、径さんみたいな人とは結婚しない」とか(笑)なんか、そういう感じですよね(笑)。
 リアリティと反リアリティがいっしょにある感じ、そういうのが好きなんですよね(笑)。

 

2000年6月16日 渋谷Les Jeuxにて収録

 


小林径
 小林径さんは、ぼくにとてはまさにGroove Merchantそのもの。ロックの歴史とか、ジャズの歴史などといったように、そのジャンルを過去にさかのぼる見方を、しかも ストイックにしてしまうのが日本の世の常。そうしたスクエアな音楽の見方をひっくりかえし、ジャンルや時代やオリジンなどを戦闘的に無視(本当は径さんは良く知っているはず)しながら選曲を構成し、新たな音楽言語を鮮やかに創造してしまう。 これが小林さんの全くもって見事な手腕なのだが、その方法を貫いているのがGroove の思想なのだ。
 なんて書いちゃって、でもそれは本当にそうに違いないのだけれど、クラブのフロ アーにいる径さんは、やっぱ、女の子にもてるだろうなあというちょっと危なくて、ジェントルなとてもいい人なのだった。
 今回はこんな堅い話をしてもらってスミマセン。でも、やっぱ経さん、コメントの終わり方が最高ですね。(大)


 

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