20世紀に連れてって

| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |

第6回 本城和治

「僕は芸能界と仕事したんじゃない。音楽界と仕事したんです」


 レコード会社のディレクターを名乗る人物に結構、会う機会が増えた。「本城和治」という名前は、現在の彼らにはどう響いているのだろうか?

 1960年代半ば、スパイダース、テンプターズあたりのディレクターとして、事実上、GSというジャンルを世に送り出した最重要人物としてGS関係の書物では必ずお名前を拝見するし、フランス・ギャルやウォーカー・ブラザースなどフィリップス/マーキュリー関連の60'sポップスを日本に根付かせた人物としての功績もすごい。さらに65年の「バラが咲いた」を皮切りに、ウェットな歌謡曲全盛のチャートに、非常に洗練されていてモダンで、なおかつスケールの大きなヒット曲(「また逢う日まで」「メリージェーン」「別れのサンバ」他多数!)を立て続けに送り込んでいる。そして、現在、日本のポップス界最後の強烈なリイシューとなっているピコの『abc』を手がけていらっしゃるのだ! 緊張せずにいられようか!

 しかし、と言うか、やはり、と言うか、インタビューの席に現れた本城さんは、イカしてた。穏やかな語り口と、人間臭い眼差し。そして、僕の印象に強く強く残ったのは、音楽に対するファン意識や、自画自賛の類にからめ取られることの無い、音楽をベストの状態で世に送り出すことにとにかく執着した芯の強さ。そこには、人柄の良さに埋もれてしまわない、やりたいことをやるための覚悟がある。そこから匂い立つ凛とした意志こそが、本城さんの手がけた作品に通底したスマートさ、クールさを与えている。それ故に、今でも「ある時代のもの」になってしまわない「渦中の音」として、僕たちの興味を巻き込んでいるのだ。かくして、大長編のインタビューと相成りましたが、時に優しく、時に手厳しい本城さんの懐に、みなさんもぐいぐいと巻き込まれてください。

 GSを中心とした60年代の話題は、本城さんの過去のインタビューとダブるものもあるが、あえて意識せずに掲載した。逆にGSトークが食い足りない、とおっしゃる向きは「カルトGSボックス」のライナーや、その種の文献に登場する本城さんの発言まで手を広げられるといいと思う。

 ピコに関する話題は「ボーナス・トラック」扱いで、本来なら別枠にすべきかもしれないが、タイムリーということと、あのアルバムの素晴らしい内容に触れていただくきっかけになればと思い、冒頭に掲載した。なお、インタビューに入る直前、ピコのCD『abc』発売を告知したチラシを手にして、「ようやく出るんだ。前に企画が出たことあったんだけど、一度ぽしゃったんだよねえ」と目を細められて、偶然かかってきた携帯電話の切り際に「(石川)セリにも伝えといてよ、ピコのCDが出るって!」と嬉しそうにおっしゃっていたことを付記しておく。


「僕はピコのファンだった。新しいアイドルになれるかもしれない、って」

松永:この10月25日に、ついにピコ(樋口康雄)のアルバム『ABC』がCD化されるんです。先だって、僕は樋口さんのインタビューに幸運にも同席させてもらう機会がありまして。そのときに、会話の端々に、ある二人のお名前がよく登場しました。ひとりは、NHKのディレクターでいらっしゃった末盛さん。そして、もうお一人が、このアルバムのプロデューサーでらっしゃった本城さんだったんです。

本城:末盛さんっていうのは、「夢で逢いましょう」とかやってらっしゃった方だね。樋口君はNHKで随分仕事をやってたからね。

松永:このお二人が、当時、若いアーティストにチャンスを与えて、世に送り出してくれた、ってことが、自分にとってすごく大きかったとおっしゃってたんですけど。

本城:これ確か、昭和47年ですよね。72年。一番、僕が楽しく仕事やってる頃だったんだね。

松永:尾崎紀世彦さん(「また逢う日まで」)とか、つのだ☆ひろさん(「メリージェーン」)とか、かまやつさんとか手掛けてらっしゃったんですよね。で、このピコのアルバムというのは、ヴァーティゴというすごくマニアックな印象のレーベルから出ているんですが。

本城:別にこれには大した意味は無かったんですよ。フィリップスという母体があって、当時、ヴァーティゴっていうのはその中でのロック・テイストの音楽をやる新しいイメージのレーベルだったってわけで。日本の音楽でも、全部フィリップスっていうのは能が無いし、じゃあ、いろんな新しい音楽やるのは全部ヴァーティゴにしよう、っていうような会社的な発想だったんだよね。だから、割とロック寄りのアーティストであれば、ヴァーティゴに括っちゃったわけですよ、強引に(笑)。長谷川きよしの「黒の舟歌」のシングル・ヴァージョン(つのだ☆ひろと成毛滋がバックをやった)とか、ミッキー・カーティスだとか、フライド・エッグとかね。

松永:樋口さんと仕事をされたのは、このアルバム『abc』が初めてなんですか?

本城:そうですね。シング・アウトと僕は付き合いは無かったから。シング・アウトのアルバムは、確かRCAビクターからですもんね。シング・アウトのときは、シングルで一曲書いてたくらいじゃなかった?

松永:それがどういうきっかけで、アルバムを手掛けられることになったんでしょう?

本城:あのとき、石川セリのファースト・アルバムを聴いて、曲書いたり、アレンジしてる彼のこと「いいな」って思ってたんだよね(注:彼女はピコのアルバムにも詞を2曲提供。その1曲が「I LOVE YOU」)。そしたらタイミング良く、ソロ・アルバムの売り込み、って言うか、紹介があったんですよ。そのときに、何曲か入ったデモ・テープを聴いて。声もサウンドも良かったので、あのアルバムを作ることにしたんです。
 でも、それまではTVの「ステージ101」も、よく見てた覚え無くて(笑)。彼は当時、結構、あの中では人気スターだったでしょ。

松永:プロデュースを本城さんがされて、実際のディレクションはジョニー野村さんがなさった、ということですが。

本城:ジョニーかぁ…。原盤会社のレビュー・ジャパンのプロデューサーっていうのは、確かにジョニーだったけど。彼がいたってこと、あんまり僕覚えてないんですよ(笑)。僕はもちろん、全部、自分でディレクションしてましたからいたんですけど。でもジョニーも一緒にやってたのか……、はあー(笑)。そうかもしれないな。でも、よくあのうるさい男と、僕一緒に出来たなあ(笑)。

松永:ギタリストが水谷公生さんだったとか、いろんな事実が樋口さんとのインタビューで明らかになったんですが、当時、ものすごく忙しかったために、ご本人もよく覚えてらっしゃらないところが、結構あったんですよ。

本城:実は僕の持ってたアルバムも、どこか行方不明になっちゃってて。だから、発売になってから、僕は全然聴いてないんです。昭和47年以来、28年間でしょ。ちゃんと聴き直してないんです。こないだ家を調べたら、「あのとき」でしたっけ? あのシングル盤は一枚出てきたんですけどね(笑)。申し訳ない。

松永:でも、『abc』が今、再発になるということについては、感慨がありますよね?

本城:いやー、そりゃぁありますねえ。僕は、当時、個人的に彼の音楽のファンだったから。もちろん、それまでそんなに作った音を知ってたわけじゃなかったけど、実際に一緒に作ってみたらすごくて……。とにかく、彼の音楽っていうのは、当時、もっともポップなセンスを持ったアーティストということで、すっごい期待を持って僕は臨んだんです。声もチャーミングだし。だから、シングル意識というよりも、アルバムをホントに考えてた。これで彼は新しいアイドルになれるかもしれない、というね。

松永:若い子たちが血眼になって、このオリジナルLPを探していて、一説には当時、プレスが2、300枚しかされなかった、というウワサすら流れたんですよ。

本城:いや、はっきり覚えていませんが、千枚以下だったってことは無いと思いますよ。

松永:本城さんとしては、もちろん売れて欲しかった、と。

本城:そりゃそうですよ。

松永:今になって、「I LOVE YOU」という曲は、クラブでもかかりまくり、という状態なんですが。

本城:そうみたいですねえ。でも、あの曲より良い曲、もっとたくさんあると思うんだけど。僕が当時シングル・カットを選んでたわけですけど、これ2枚目のB面ですからね(笑)。

松永:シングル・ヴァージョン、歌い直しになってますよね。樋口さんご本人は、まったく覚えていらっしゃらなかったんですが。

本城:確かにシングル・ヴァージョンを作った記憶がありますけど、現物が手元に無いんで、どう変えたかは正確には言えません。確か、リズムを強調したミックスにしよう、ってことだったと思うんですけど。でも、歌は入れ直して良くなった筈ですよ。

松永:残念ながらピコはセールスについてはダメだった。本人的にも、じゃあセカンドを作って挽回しよう、みたいな意識は無かったみたいですし。

本城:そうですね。自分の歌のレコードをとにかく作りたい、っていうのがあんまり見えなかったね。ま、彼自身に歌い手っていう意識が無くって。作曲とか、アレンジとか、音楽自体をもっと大きなものとして捉えてたから。ま、売れれば違ったのかもしれないけど。

 僕は、この後も樋口君とは結構仕事してるんですよね。大橋純子とか、もんたよしのりとか。後、今じゃフルート奏者になっちゃった女優の神崎愛の『神崎愛ファースト』(80年)なんてアルバムは、全曲、彼の作曲・編曲ですよ。


「高校、大学と、ジャズにかぶれてました」

松永:ここからは、本城さんご自身についてのお話をお訊きしようと思います。一番最初の音楽の記憶というのは何でしょう? 

本城:僕は1939年(昭和14年)生まれなんです。親父が、やっぱり音楽好きで。ダンスが好きだったんですよ。社交ダンス。銀行マンだったんだけど、戦後、銀座にいろんなクラブとか出来て、そういうクラブの女の子たちに、ダンスを教えてたらしいんですよ(笑)。僕が覚えてるのは、親父はノートに、ダンスのステップを書いてて、それがもう何冊もあるんですよ。それで、家にはダンス用の音楽がSP盤で結構あって、それを聴いてたのがそもそもなんじゃないかな。まあ、その頃はよく判ってなかったんだけど。高校生くらいになった時に、それを見てみるとベニー・グッドマンだとか、カウント・ベイシーとか、マンボとかチャチャチャとか。まあ、そんなに音楽に詳しかったわけじゃないんだけど、いわゆる軽音楽というものを聴いて育った、という感じでしたね。でも、自分で初めて買ったレコードってのはね、全然関係なくて、春日八郎の「お富さん」(笑)。中学2年のときかなあ、これが、えらい気にいっちゃってねえ(笑)。

松永:いきなり大ヒットシングルですね(笑)。

本城:かと言って、僕は歌謡曲に走ったわけじゃないんですよ(笑)。で、その後買ったのが……、初めて映画館行ったときかな、親父と一緒に。そのとき見たのが「ホワイト・クリスマス」っていう映画で。中学を卒業する頃で、それを見たのが僕がホントに音楽を好きになったきっかけだったんだな。ビング・クロスビーの歌う「ホワイト・クリスマス」のSPを買った。すごいうれしかった。それからは「グレン・ミラー物語」とか「ベニー・グッドマン物語」とか音楽映画がどんどん来て。それで、高校一年くらいから、映画と音楽同時期にダアーッと吸収して行って。ミュージカル映画とジャズ。それが音楽に対する興味の第一歩だったと思う。
 トランペットがすごく好きだったから、ハリー・ジェームスとか、ルイ・アームストロングとか聴いて、水道橋の「スヰング」とか、そういうジャズ喫茶に行くようになって。なかなか買えませんからね、レコード高くて。で、あるとき、新宿のジャズ喫茶で、何て名前の店か忘れちゃったけど、そこで突然、クリフォード・ブラウンがかかって身震いして、「ええーっ!?」って思って。「こんな凄いジャズがあるのか?」って思って、そこから一気にモダン・ジャズに入っていったんですね。

松永:ハード・バップの夜明けというわけですね。

本城:そうですね! ですから、クリフォード・ブラウンというのは、個人のアーティストとしては僕には初めて衝撃を受けた人でしたね。映画ではジェームス・ディーン。ところが、この二人が、ほぼ同時に死んじゃったわけですね! これは非常にショックでした。

松永:まさに、時代と同時進行的。

本城:そうですよ。知り合うと同時に死んじゃったみたいなもので。
 それから、高校2年くらいからは、渋谷のジャズ喫茶で「デュエット」。あそこに入り浸ってましたねえ。でも、その頃、クラシックも聴いてたんですよ。
 後は、中学がクリスチャンの学校だったんで、賛美歌を礼拝で歌ってたんです。クリスチャンにはならなかったんだけど、教会には大学を卒業するまで行ってましたよ。それがもとになって、後に森山良子と、アルバム7枚101曲の賛美歌レコード作ったりするんですけどね。

松永:大学に入ってからも、ジャズ好きっていうのはずっと続くんですか?

本城:やっぱりクラスにもジャズの好きなヤツがいて、そういう人たちとジャズ喫茶行ってましたね。だんだん世の中はファンキー・ブームになってきて、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズとか流行ってましたね。
 当時は、もうLP時代になってたけど、日本盤がほとんど出て無かったんです。エロール・ガーナーの『コンサート・バイ・ザ・シー』! これはLPで買った。多分、高校2年頃に、最初に買ったモダン・ジャズLPのうちの一枚なんじゃないかな。

松永:ジャズ一辺倒だったんですね。

本城:そう……ねえ。ジャズ大好き人間だったねえ。でも、クラシックも引き続き聴いてましたよ。バルトークが結構好きで。
 あと、大学入ってからは、合唱。いわゆるグリー・クラブ。「慶応ワグネル・ソサエティ」っていうんだけども。たまたま同じクラスのヤツがそこ入りたい、って言って。でも「ひとりで入るのはイヤだ」って言うんですよ(笑)。僕は声に自信無いんだ(笑)って言ってたんだけど、「しょうがない、付き合ってやるか」という感じで入ったんです。最初は適当にやってたんだけど、そのうちだんだんのめりこんできて。その友達は一年くらいで辞めちゃったんだけど、僕は最後までいたんだよねえ(笑)。
 だから、合唱音楽とか好きになったし、当然、ハイ・ローズとかフォー・フレッシュメンとかね。ほんとは僕に才能があったら、ああいうメジャー7th系のコーラスを取り入れた合唱、そういうのがやりたかったな。

松永:やっぱり、そういう洗練されたものが欲しくなる、っていう自分に対しての自覚とかあったんですか?

本城:そうですねえ。ジャズが好きだったから、っていうのはあるんじゃないですか。ま、合唱も悪くないんですよ。ほんとはね、男声だけの大編成で、リズムからブラス、リード・セクションから、ビッグ・バンド・サウンドを全部声で再現したら面白いだろうな、とか思ってたことありましたけどね。


「リミックスの先駆けみたいなもんですね、『ブーベの恋人』は

松永:それで、いよいよご卒業……。

本城:まあ、親父は銀行マンだったんで、じゃあ、オレも銀行でも入って、好きな音楽は趣味ででもやるか、って思ってたんだけど。たまたまそのワグネル・ソサエティの先輩で指揮者やってた方で、ビクターに入社されてた渡辺學而さんって方がいらっしゃいましてね。その人に相談したら、「ウチ受けてみる?」って言われて。渡辺さんはフィリップスにいたんです。そこでクラシックを担当されてて。

大江田:そのころは、日本ビクターのフィリップス事業部ってことだったんですよね。

本城:日本ビクターのレコード本部は当時、築地のスタジオにあって、そこに第一営業部、第二営業部ってのがあって。第一はいわゆるビクターの犬マークの関係で、第二営業部ってのは、それ以外のすべてのレーベルの、企画、編成から営業までやるところだったんです。その第二の中でさらにフィリップスのグループと、後のビクター・ワールド・グループがあって……。ドットとか、アトランティックとかあらゆるレーベルを扱うセクションがあって。それを統括してたのが、伊藤信哉さんでね。築地のビクターの文芸部(注:今で言う制作セクションに相当する)の隣にあったんですよ。

松永:その当時のレコード会社っていうのは、まだ規模も小さいものだったんですか?

本城:小さいですよ。フィリップスだって、4人くらいでやってたんだから。ワールド・グループだって3人くらいだったし、販促とか入れても全部で10人くらいだったんじゃない。で、僕が入社するのと入れ替わりに渡辺學而さんが辞めて、新進のクラシック評論家になられて。当時、ビクターに入ったのは文化系で80人、技術系で40人かな。でも、その中でレコード部門に配属になったのって、たったの4人だったんですよ。ほとんどは機器かレコードのセールスマン。

松永:初めて担当されたアーティストとか覚えてらっしゃいますか?

本城:ちょうどね、そのときリヴァーサイドってジャズのレーベルと会社が契約したんですよ。それで、僕に「担当しろ」って言われて。だから、第一回発売からカタログから選んで僕がやりました。「いきなりやっていいのかな?」なんて思いながら(笑)。それで、ビル・エヴァンスとか出したんですよね。その後も、マーキュリーとかも権利がありましたから、クリフォード・ブラウンとかも出せたんですよね、念願かなって(笑)。
 後は、シングル盤ね。当時、ほとんどやりました。(と言って、リストを見せる。ものすごいリストだ)

松永:すごい顔触れのリストですよね。

本城:でもね、僕、当時、こんなポピュラーのヒットとかそんな興味無かったんですよ(笑)。どっちかって言うとジャズ聴いてたから、そんなの聴かないじゃないですか。プレスリーでさえ、僕は映画も見たことなかったんですから。

松永:はあー……(意外)。

本城:それで、会社入ったらいきなりさ、当時、フォー・シーズンスの「シェリー」が流行ってたから。「シェーエリー♪」ってうるさくかかってるわけですよ(笑)。るっせーなあ、って思ってて(笑)。ビクターのでっかいスピーカーでさあ。閉口しましたね。でも、すぐ慣れましたけどね。えへへへへ。最初は、とにかくその「シェリー」に悩まされましたよ(笑)。

松永:このリストに出してあるのは代表的なものだと思うんですけど。やっぱりある種のモダンさを感じてしまうんですが。

本城:でもこれ、向こうから原盤が来るやつを「売れたものは出さなきゃいけない」つって出すわけだからね。日本で選んで出すのもありましたけど。「さすらいのギター」なんかはそうですよね。別にあっちでヒットしたわけでも何でもないインストゥルメンタル・ナンバーで。でも、これはなかなかの名曲でねえ。みんなも「この曲ヒットするぜ」って言ってて、結局、20万枚以上売れたんですよね。

大江田:ミーナの仕事はどうでした?

本城:これも、だって「君に涙とほほえみを」はサンレモ入賞曲ですもんね。「別離」は日本人受けするいい曲だな、と思って出したんですけどね。

大江田:日本語盤もありますよね。そういうのは日本に来たときにレコーディングするんですか?

本城:いやいやいや。当時、まだ日本に来てませんから。こちらで譜面にローマ字をふって、それを向こうに送って、日本語判る人に立ち会ってもらって。「夢見るシャンソン人形」の日本語盤もそうですよ。当時、そのためだけにわざわざ外国行かせてもらえませんでしたから。まだ日本語で歌うと売れたんですよね。カバー・ポップス全盛時代の名残を引き継いでる頃ですから。そのうち、日本語はすごいダサいって時代になっちゃうんだけど。

大江田:このリスト拝見してて面白いな、と思ったのは、例えば、ホルスト・ヤンコフスキーの「森を歩こう」なんて曲シングルで出されてるんですよね。

本城:これは、アメリカで大ヒットして。だから、そのまま出したんだけど。

大江田:これ、最近やっとCDになったんですよ。シングル盤長い間高かったんです。

本城:へー、そうなんだ(笑)。なかなか渋い、いい曲だったもんね。日本ではそんなに売れなかったけどね。
 あと、結構、苦労したのは「ブーベの恋人」。

松永:映画のテーマ曲ですね。

本城:まあ、曲で映画も当たっちゃったようなものなんですけど。これはね、ピーナッツも歌ったのかな。でもね、オリジナル・サウンドトラックでは、30秒か20秒くらいで、M-1、M-2、M-20とか、そういうのがただ入ってるようなレコードなんですよ。3分くらいの曲が何もないわけですよ(笑)。それで、そのたくさんある中からね、2つか3つのメロディを選んで、構成を考えて、一日がかりで断片を集めて、編集して一曲に仕上げたんですよ(笑)。

松永&大江田:へえぇー!

本城:だから、サビとあたまのAメロとBメロは全然違うシーンの音楽なんですよ(笑)。それをうまく合うようにして。

松永:リミックスって言うか、時代の先駆けですね(笑)

本城:えへへへへ(笑)。だから、本来はそういう曲は無いんですよ(笑)。まあ、当時はいんちきサントラ作ったりとか、そういうこと結構ありましたけどね。この場合は、純正のサントラから断片を拾って、そういうことをした、と。

大江田:映画音楽の名曲の中に必ず入りますよね。

本城:だって売れたもん。30万枚以上売れましたからねえ。

松永:その手の名曲集に入るヴァージョンは、実は本城さんが作られたものだっていう(笑)。

本城:そうそうそう!(笑)。

大江田:僕は「MDUバックグラウンド・ミュージック」っていうイージーリスニングをかけるTBSのラジオ番組の選曲をやってて、「ブーベ」は何度もかけましたけど(笑)、今初めて知りました(笑)。

本城:ああ、ホントに。音悪いんだよねー、この曲(笑)。後は映画ので思い出深いのは「シェルブールの雨傘」ですね。これ、シングルはそんなに売れなかったんだけど、アルバムで売れたんですよ。これ、オリジナルは2枚組じゃないですか。でも、2枚組じゃ日本では売れないって思って、野口久光さんと二人で、一日がかりであれを一枚にするって作業をやったんだよねえ。それで、大サービス盤で、長尺にしてね。これだけあれば一枚で十分でしょう!って。

大江田:当時、プロモーションなんかもご自分でされたんですか。

本城:ああ、してましたよ。局回りとか。ベスト10番組とか電話リクエストとか、文化放送の「ハロー・ポップス」とかでも、アルバイト雇って電話かけさせて、とか。そりゃあ(笑)ファンクラブが強いところはいいですよ。でも、弱いところは、そうやってやんないと。

大江田:その頃の洋楽仲間とかは、どういう方がいらっしゃったんですか? ビートルズを担当されてた高島(弘之)さんとか。

本城:高島さんは、僕より世代が上かな。東芝では、僕と同世代は安海(あつみ)勲さん。彼はそのうちリバティ・レコードで、ゴールデン・カップスやって。

松永:じゃあ、ライバルですね。

本城:そうですね。でも、ライバルって意味では、実際は高島さんでした。彼がビートルズやってるときに、僕はウォーカー・ブラザースやってたから。よくTVとかでも、「ビートルズ対 ウォーカー・ブラザース」で宣伝合戦しろ、とか企画があって。高島さん、話上手いからさぁ(笑)。
 あと、コロムビアではブルコメやってた泉(明良)ちゃんでしょ。彼がエミー・ジャクソンやってるときに知り合ったんだ。キングではローリング・ストーンズやってた寺沢(祥夫)くん。それからお髭の山田さん。これがまた変わってる男で、ヴァンガードとかやってたかな。あと、キングのカンツォーネの権威で今はオペラ評論家の河合秀朋さん。テイチクの金子正さん。ポリドールの、藤原の“おけい”さん。そうそう、ポリドールには、まだ筒美京平がいた! まさか、彼が作曲家になるとは思ってなかったから(笑)。後に彼の曲を売り込まれるんだけど、「これ誰の曲?」って訊いても、誰も教えてくんないの。突き詰めたら、「実は…」で、「エェーッ!」ってなってさ。
 洋楽時代は楽しかったですよ。特に「夢見るシャンソン人形」の頃はね。やりがいがありましたよ。

松永:「夢見るシャンソン人形」という日本語タイトルを考えられたんですよね。

本城:いや、考えられたも何も、合作なんですよ。僕は「夢見る歌人形」だか何だか普通のタイトル言って。そしたら、ボスの伊藤(信哉)さんが「歌人形? やっぱシャンソンだろ」って言って、「ああ、そりゃいい!」って(笑)。
 この曲を何とか当てようと思ってね。これがユーロヴィジョンで優勝したって判ってても、まず別の曲を出して。で、「フランス・ギャルいいよ」ってささやき作戦を実行して(笑)、いろんな人に宣伝してさ。だから、この曲が出たときは、もうみんな同じ週に全部のラジオ局で新曲コーナーでかけてもらって、同じタイミングで上に上がって、4週間目に全部の局で一位になったんですよ。


「日本人のポップスってものをやらないのはおかしいでしょ」

松永:そういう洋楽の担当から、いよいよ日本人のアーティストを担当されるようになってゆくわけです。もうさんざん訊かれていることだと思うんですが、マイク真木さんや、スパイダースと仕事をされる時期へ。

本城:まあ、並行してやってたんですけどね。僕としてはすごく自然にやってたっていうか。こういう洋楽の面白い楽曲を、どうして日本人では出来ないんだろう?って、そこからですよね。各社の文芸部にしたって、日本のポップスっていうのはカバー物をやってるだけで、後は歌謡曲でしょ。その隙間っていうのを、普通のユーザーは求めてるんじゃないか、って。で、我々はそういうことをやらなきゃいけないと思ったし、しかも日本人だし。日本人のポップスっていうものをやらないのはおかしいでしょ。そういう自分に対する欲求不満みたいなものはありましたよね。

松永:そういう仕事を立ち上げる際に、すでにスパイダースなんかの評判はご存知だったんですか?

本城:いや、最初に僕がレコーディングしたのは、マイク真木でもスパイダースでもなくって、成毛滋の在籍してたフィンガーズだったんですよ。4曲くらい、インストゥルメンタルで録音して。日本的なオリジナリティを持ってるな、と思ってレコーディングしたんですが、そうこうしてるうちに、やっぱり世の中、ヴォーカル&インストゥルメンタルの時代になってきちゃって、こんなインストじゃダメだろう、と。それで、彼らのマネージャーに「ヴォーカルを付けないとデビューはさせられないよ」って言って。でもなかなか見つからなくてね。その間にシンコー(ミュージック)さん経由でスパイダースの話をいただいたんですよね。で、僕も「あ、こういうの僕はやりたかったんだ」って思って。ジャズとクラシックを聴いてきた僕にとって、ポップスっていうものと向き合うきっかけになったのはビートルズだったわけだし。ヴォーカル&インストゥルメンタルで、これから新しいことをやっていきたいって思ったんだ。

松永:スパイダースはデビューはクラウンですよね。それをフィリップスで引き受けるにあたっては、戦略と意気込みというのは、かなりのものだったんですよね。

本城:ま、メンバーもそうだし、我々もフィリップスがやるからには海外に進出出来る、洋盤レーベルで出来るようなものじゃないと意味が無いだろう、っていうのがあったし。僕も洋楽やってる人間としてね。で、日本でも成功出来る要素があって、海外にも進出出来る可能性がある。そういう意味ではうってつけの素材だったんだね。現実に、アメリカでもシングル盤が出ましたしね。

松永:確か「ビター・フォー・マイ・テイスト」。

本城:そう。「ノー・ノー・ボーイ」がB面でね。オランダでも出たのかな。マイク真木も、「バラが咲いた」はヨーロッパで出ましたしね。

松永:「バラが咲いた」やスパイダースの「夕陽が泣いている」とか、ハマクラさんなわけですが、最近出されたアンソロジーの解説でも書かれてるかもしれませんが、ハマクラさんとの出会いって覚えていらっしゃいますか?

本城:あんまりはっきり覚えてないんですけどね。ただ、ハマクラさんのお宅には2回くらいお邪魔はしてるんですよ。ただ、それが何のときだったか。「バラが咲いた」のときは、もう曲が出来てて、僕が聴くより先にマイク真木がこれを聴いてましたから。ハマクラさんのデモ・テープをね。
 で、この曲のレコーディングのときね、彼は間違えて詞とメロディを覚えてたんですよ。一カ所。で、ヒットしてから、ハマクラさんが「ちょっと違うんだけど、やり直してくれ」って(笑)。こっちは「エェーッ?」ってね。ほら、別にスタジオに譜面があるわけじゃないし、まさか間違って歌ったとは思わないしさ(笑)。

松永:でも、ヒットしちゃったんですよね。

本城:それで、レコーディングし直したんですよ。でも、し直したときはもうヒットのピークを過ぎててね。途中で、同じ番号でシングルの中身を切り替えたんです。このCDのライナーノーツでもちょっとこの件には触れてますけどね。いやー、でもやっぱりオリジナルの方が良かったですけどね。良いって言うか、録音の出来は、ね。このCDには歌い直した方の「正調」を入れてあります。天国にいるハマクラさんに文句つけられないように(笑)。

松永:「夕陽が泣いている」のときは、かなりスパイダースのメンバーはゲンナリしてたということですが。かまやつさんの発言で、「あの曲でスパイダースは終わった」というのもありますし。

本城:僕も(あの曲を録音することに)抵抗ありましたもん。……あのねえ、僕は、やっぱりヒット曲を出さないとしょうがないな、っていう感じで、メンバーは、うれしそうな顔はしてませんでしたね。でも、ただ、そのイントロ。あれは(井上)堯之が考えたと思うんだけど、あれを聴いたとき、安心したんですよ(笑)。これだったら大丈夫かな、って。レコーディングが終わったときは、「これは10万枚くらいはいくかな」って考えて。それまで「フリ・フリ」にしても「ノー・ノー・ボーイ」にしても「サマー・ガール」だってそんな売れてなかったしね。でも、これなら間違いなくいくだろう、って確信はありましたね。実際、60万枚近く売れましたし。ま、それだけ歌謡曲だったわけなんですけど(笑)。僕がスパイダースに求めてたのは、もっとそうじゃないものだったんです。

松永:「夕陽が…」以前の2枚(ファーストとセカンド)のアルバムのカッコ良さっていうものは突出してますもんね。ファースト全曲オリジナル、セカンド全曲カヴァーというディレクションは、本城さんの手によるものなんですか?

本城:そうですね。最初はやっぱり全部オリジナルだ、ってことで。で、もう曲も無いから(笑)セカンドはカヴァーで。

松永:期間も3ヶ月位しか空いてなくて、実質的には2枚組のようなものですよね。

本城:そうですね。これはスパイダースに限らずなんですが、自分自身で日本のアーティストをやっていて、やっぱりこれからはアルバムの時代だ、っていう意識があって。常にアルバムでデビュー出来るアーティストというのを、自分の価値基準に置いてましたから。そう言った意味では恵まれてましたね。スパイダース、マイク真木、森山良子、長谷川きよし……。

松永:その一番最初がスパイダースだった、と。

本城:そうですね。ただ、いかんせん、まだシングルの時代でしたけどね。GSっていうのはアルバムで認知されるような時代じゃなかったですねえ。テンプターズになると、時代的にアルバムなんですけど。スパイダースは思ったほどアルバムは売れませんでしたね。

松永:最初の2枚のアルバムは、再発されるまですごくレアだったんですよ。海外のガレージ・コレクターの連中が日本に来て買い漁ってしまった、っていう話で。

本城:へえー。

松永:録音の仕方も誰も判らない状況で、スタジオに入って大変だったと聞きますが。

本城:だって、ジャズ喫茶でやる方法しか慣れてないわけだから。歌無しで演奏だけ録る、なんてのはやっぱり彼らにしても戸惑いますよね。かまやつくんはレコーディングの経験があるって言っても、ソロでテイチクでやってたんだし、バンドでやるのはスパイダースが初めてでしょ。エレキを使ってたのでもないし。スタジオにしたって、衝立とかも無いし、田辺昭知のドラムの音がみんなかぶっちゃって大変でしたよ(笑)。僕だって、ジャズとか他のポップスのレコーディングはやったことあるけど、そういうエレキ・グループは初めてだったし。歌だって、シャウトでしょ。エニジニアもびっくりして、ついフェーダー下げちゃいましたよね(笑)。 

松永:3枚目のアルバムに入っている「なればいい」は海外のバンドにもカヴァーされてる傑作ですけど。

本城:それは知ってますね。あの曲の録音のときは覚えてますよ。あの時代にああいう曲ってのもすごかったし。あの詞がね。あれは衝撃的だったですね。しかも、その詞を書いた女の子(注:オリベゆり。モデルだった)ってのも、後に死んじゃったんだよねえ。

松永:バンドとの意見の衝突とか、食い違いみたいなこともあったんでしょうか。

本城:衝突ってのは無いんだけど、やっぱりミュージシャンだからそれぞれの主張ってのは常にありますよね。

松永:年齢の違いとかもありますよね。

本城:いや。スパイダースなんかは割と年だったし。僕より年上のメンバーもいたわけだから。テンプターズとかになると、一回りくらい年が違っちゃうんだけどね。だから、スパイダースとは非常に大人の付き合いとか出来ましたよね。スタジオでも、何かあると田辺昭知が全部まとめ役してたし。時にはレコーディング中断して、田辺昭知のお説教タイムになっちゃったりもしてね(笑)。


「今じゃ忘れられてるけど、人気あったんだよ、ウォーカー・ブラザース」

本城:とにかく当時はね、レギュラーでこういう仕事をやりながら、インストの企画LP もやったし、クラシックもジャズもやって、新人の売り込みとかもあってやったりしてて、いろいろやってましたからね。こんなのとか知らないでしょ。シモンサイとか。これはね、下田逸郎と斎藤ノブのデュオだったんだ。二人ともまだ十代ですよ。これ、何年か前にコンピレーションに入ったんだよね。

大江田:菊池雅章さんもやってらっしゃったんですね。

本城:そうですね。彼とはかなり仕事しましたよ。70年代に山本邦山とゲイリー・ピーコックと組んでやった『銀界』とか、あれは売れたなあ。

松永:この状態でさらに、洋楽も担当されてたんですよね。異常な忙しさじゃないですか?

本城:そうですね。でも、洋楽は昭和42、3年頃までで。最後は、トラフィックが出たあたりまでかな。最後の頃のは、ザ・ハード。それから、ポール・モーリアの「恋はみずいろ」あたりもそうかな。あと、ウォーカー・ブラザースはとにかく全部やってましたから。

松永: ウォーカー・ブラザースに関しては、もうかなり入れ込んでいらっしゃったんですよね。

本城:向こうで出した曲「涙でさよなら」とか「太陽はもう輝かない」とか、ああいう曲がなかなか日本で売れなくてねえ。ホントに、千枚か二千枚しか売れなかったの。それで、やっと「孤独の太陽」ってのをアルバムから「これは売れそうだ」ってんで日本用にカットして、あれがやっと売れたんだよね。で、アルバムからまた「ダンス天国」をカットして、これが大ヒットしたんだ。

松永: ウォーカー・ブラザースの「ダンス天国」は最近CMにも使われてましたよね。

大江田:日本ではウィルソン・ピケットじゃないんですよね。

本城:やっぱりウォーカー・ブラザース。
 昭和42年、まだ日本で売れる前に僕がロンドンに行って。それが初めて僕が海外行ったときですよ。5月の3日だったかな、ロンドンに着いたのが。それで、ミュージック・ライフからも、ウォーカー・ブラザースの取材をしてくれ、って言われてて。ロンドンのフィリップスのオフィス行って、「彼らの取材させてくれ」って言ったら、「いや実はウォーカー・ブラザースは、明日解散するんだ」って(笑)。「えええぇー!」ってなっちゃってねえ(笑)。
 それで、スコット(ウォーカー)の隠れ家に行くことになったんですね。彼はファンに見つかるんで、しょっちゅう引っ越しやってるわけですよ。マネージャーの車で、どこでファンに見つかるか判らないからぐるぐる回り道して、やっと辿り着いて裏口から。表はもうカーテンで閉ざされてますから。真っ暗な部屋に少しだけ灯り付けて、ビル・エヴァンスを聴いてたのかな。話してみたら、随分インテリジェンスのある人だなぁ、って思ってね。歌手はサラ・ヴォーンが好きだ、とか、ジャック・ブレルも好きだとかね。

大江田:ジャック・ブレルの曲を歌ってますもんね。

松永:そこで、「解散されたんじゃ困る」みたいなことを言って。

本城:だから、じゃあ日本用に再結成、ってかたちで日本に来たわけですよ。

大江田:そこに山本(隆士)さんが噛んでたわけですよ(笑)。(注:「20世紀に連れてって」第3回)

本城:(笑)そうそうそうそう。

松永:ああ、あのスライド・コンサートで、ファンが詰めかけて九段会館の入口のガラスが割れそうになった、っていう。

本城:(笑)まあ、よく覚えてないんだけど。とにかく彼らが日本に来る前に何か盛り上げようとしてやったのかな。ほんっとにねえ、ビートルズと同じくらい人気があったんだから、日本では。今の人は判らないかもしれないけど。67年の暮れに来日して、羽田からヒルトン・ホテル(現キャピタル東急)まで、一緒にパトカーの先導で車に乗ったときに、熱狂的なファンに取り囲まれるっていう経験を僕もしましたよ(笑)。ウォーカー・ブラザースはほとんど100%近く女性ファンですからね。

松永:ウォーカー・ブラザースの来日フィーヴァーって、今では本当に忘れ去られていますよね。

本城:そうでしょうね。で、68年の正月の2日と3日かな、大阪でライヴ・レコーディングをやって、2枚組のアルバムを作って。
 そうそう。そのとき、ゲイリー(ウォーカー)のレコーディングをカーナビーツとやるって話になってて。だけど、曲つったって、何を歌わせようかと思ってるうちに当日を迎えちゃって。日本人の作家の誰に頼んで作ってもらうか、っていうのが思いつかないのね。だからレコーディング前夜に僕が勝手にメロディ作って、スタジオに持ってって、「こんなのあんだけど」って渡して。そしたら、そこにスコットも来てたんだ。スコットが結構、そういうスタジオ・ワークが好きで、僕のメロディをもとに彼がその場で詞を書いて(注:「斯古都」名義)。それで、アイ高野のドラムのチューニングもスコットがやったんだ。非常にチューニングを低くして、重い感じの音にしたんだね。それが今まで日本では判んなかったんですよ、イギリスではどうやってるのか。バスドラのところも毛布かなんかでミュートして。「ああ、こうやってやるんだ」って。しかも、結構イギリスっぽい良い音になったんですよ(笑)。それで、スタジオ変えて、翌日かな。大晦日。今度はコーラスを入れよう、ってことになって。僕と、スコットと、スコットのマネージャーで3人でコーラス入れたんだ。すごいんだよ、またスコットのファルセットが。わー、すげーなあ、って思ってねえ。僕は低音受け持ったんだけどね。

松永:グリー・クラブですもんね(笑)。

本城:そうそう(笑)。それで、出来た、と。ところが、一曲しか無かったのね。「B面どうしよう?」ってなっちゃって(笑)。で、いろいろ考えたんですけど、A面のカラオケにライヴの中からゲイリーが「ハロー」とか「ミナサーン」とか言ってる断片を全部かき集めて、各小節に割り振って(笑)一曲作ったんですよ。ラップみたいに(笑)。「ハロー・ゲイリー〜ゲイリーのテーマ」とかタイトル付けて。結局、そのA面の「恋の朝焼け」はオリコンで50位くらいまでしか行かなかったですけど。

松永:でもその頃と言うと、もうビートルズが『サージェント・ペパーズ』。何か手を打たなくちゃ、とか考えました?

本城:………でも、これはもうしょうがないですよね(笑)。現実には解散しちゃってるわけですから。

大江田:でも、スコットのソロが出ましたよね。

本城:そう、後はみんなソロとして活躍しましたよね。ゲイリーもザ・レインとかやってね。バカ売れはしませんでしたけど。


「ニューヨークで『サージェント・ペパーズ』の仮ミックスを聴いたんです」

松永:さきほど、ロンドンに行かれた話が出ましたけど。

本城:そう。67年。で、ロンドンを皮切りに僕は世界一周させてもらったんですよね、結果的にね。

松永:どのくらい行かれてたんですか?

本城:一ヶ月くらい行ってたのかな。イギリスで、フィリップスのスタジオに行ったときにレコーディングしてたのがマンフレッド・マンです。ちょうどメンバーでクラウス・ヴ−アマンがいたんで、「あなたの作ったこのジャケットいいじゃないか」って言って、『リヴォルヴァー』の話とかしたんですよね(笑)。それから、ミュージック・ライフの表紙の写真を撮るんで、一緒に来てた森山良子と誰かイギリスのミュージシャンと写真撮らなきゃいけない、ってんで「誰かいい人いないか」って、向こうで紹介されて連れて来られたのが、スペンサー・デイヴィス(笑)。

松永:ひとりだけで来たんですか? スティーヴ・ウィンウッドは?(笑)

本城:彼ひとりだけ。非常にアンバランスだよねえ(笑)。もちろん、グループで活動してたんだけど、まだスティーヴ・ウィンウッドもそんなに知られてなくて。あの頃「キープ・オン・ランニン」が出てたくらいじゃない? 「他のメンバーどうしてるの?」って彼に訊いたら、「いや、アルバイトでみんな忙しい」って(笑)。「音楽だけじゃ食べていけないから、みんな他の仕事してるんだ」って話をしたのを非常によく覚えているんです。

松永:ホントに表紙になったんですか?

本城:なりましたよ。シンコー行けば見れるんじゃないですか。同じ号に、多分、僕の「スコット・ウォーカー会見記」が載ってる筈ですよ。
 それから、ロンドンの後、スイスのモントルーで、フィリップスのインターナショナル・コンヴェンションがあったんですよ。そこで森山良子が日本代表でお披露目やったんですよ。そのとき、フランスかオランダから出てきたのがヴィッキーだったんです。

松永:「恋はみずいろ」。

本城:そうですね。あれがデビュー曲ですもんね。あのとき、森山良子は着物でギター弾いて歌ったんですよね。かわいそうに。今だったらさせませんけどね。その頃は、やっぱり関心持たれるには衣装から、って思ったんですよね。
 そのあと、ニューヨーク行って。そこでシンコーが関係してたある音楽出版社行って、録音が終わったばっかりのビートルズのアルバムの仮ミックスを聴かされたんですよ。それが『サージェント・ペパーズ』だったんです。

松永:へえーっ!

本城:ただ、モノラルの音の悪いオープン・リールのテープ・レコーダーだったんでね。よく判んなかったです、はっきり言って(笑)。「何かすごい違うな」と思って、ひょっとしたら、すごい音楽やってんのかな? って気はしましたけどね。しばらくして日本で発売になってからビックリしましたけどねえ。

松永:多分、日本人で初めてですよね。

本城:全部聴いたわけじゃないけどね。何曲か、だったんだけど。
 そのあと、サンフランシスコ行ったのかな。ハイト・アシュベリーとか盛り上がってた頃で。そこで聴いたバンドが、スパロウズってグループと、ドアーズだったんですよ。

松永:まだエレクトラからデビューする前?

本城:まだ売れる前でね。フィルモア・ウェストだったかな、行ったら2バンド出てたんですよ。

松永:スパロウズって言うのは?

本城:それは、その後聞かないねえ(笑)。でも、ドアーズも見たけど、内容は覚えてないですよ。まだジム・モリソンだなんて判らないで、一介の新人バンドとして見てたんだから(笑)。
 でも、やっぱりあの頃のアメリカはすごかったですねえ。ヨーロッパはそれほどでもなかったけど。
 その後、69年に僕は森山良子のナッシュビル録音とテンプターズのメンフィス録音でまたアメリカ行くんですけどね。これがまた乱暴な話で森山良子の一週間後にもうテンプターズでね。両方とも一週間で完パケしちゃうんですから(笑)。

大江田:森山さんのアルバムは、ジャケットで彼女がテンガロン・ハットかぶってるやつですよね。

本城:そうです。あのとき、一緒にプロデュースやったのがドン・ギャントっていって、その頃、ネオン・フィルハーモニックという名義のレコードを出していた人で。当時、ナッシュビルはおろかアメリカでも、もっとも先鋭的なセッション・グループだったんだよね。バックの演奏を担当したのは、後のエリア・コード615だった。

松永:その後、メンフィスですか。

本城:まあ、近いですからね。ただ文化は全然違うけど。レコーディングの仕方も違うし。メンフィスのレコーディングをコーディネイトしてくれたのは、ディッキー・リーっていう歌手で。マーキュリーで何枚かレコード出してるんですよ。あのときのメンツもすごいよね。メンフィス・ホーンズ使ってるしね。
 メンフィスは、この前にハービー・マンが「メンフィス・アンダーグラウンド」をヒットさせてたり、ダスティ・スプリングフィールドの『イン・メンフィス』って結構話題になったレコードとかあって注目されてたんですよね。
 ただ、あっちのミュージシャンがやりにくかっただろうって思うのは、(筒美)京平さんの曲とか典型なんだけど、コードがやたら変わるじゃないですか。向こうのは例えば8小節同じコードとかで、リフの面白さとかグルーヴ感とか出せるわけでしょ。だから、「日本の曲は難しい」って言ってたね。そう言った意味では、あのレコードでホントのメンフィスの良さを残せたかどうかは疑問なんだけど。ま、それと、テンプターズって名前だったけど、あれは実際にはショーケンのアルバムだったし。松崎由治が作ってたテンプターズ・サウンドとはまったく違ったし。このアルバムに関しては中村八大さんを始めとしていろんなプロの作家の曲を使ってたし。

松永:レコーディングにはテンプターズ全員は参加してませんよね。

本城:ロスまでは行ってるんですよ。でも、みんな来てもしょうがないから、ロスでお遊びしてもらって(笑)。松崎君は来たのかな? 一曲ギター弾いてるから、来たんじゃないですかね。

松永:この2枚が日本人の海外レコーディングの先駆けと言っていいですよね。実際にレコーディングしたアーティスト側に反応はどうでした?

本城:森山良子はやっぱり、その後の『イン・ロンドン』もそうだけど、非常に気持ちよく出来たんじゃないですかね。ショーケンはねえ……。あんまり感想とか聞かなかったな。音の違いってのは二人ともやっぱり感じたろうし。向こうのミュージシャンって、やっぱり何かあったかいんですよねえ。基本的に譜面にそんなに頼らないでスタジオの中でどんどん決めて、いいものにしていくじゃないですか。そういう片鱗は出てると思うんですけど。
 ただ、ショーケンはあそこでそんなに余裕があったかどうかは判んないな。大変だったと思いますよ。限られたスケジュールの中であれだけのことをするのは。しかも慣れない英語の曲を2曲もやったし。

「自分でもアル・クーパーみたいにレコード作りたいな、って思ってた」

松永:プロデューサーとしての仕事で、例えばフィル・スペクターのような自分のサウンドを前面に出していくタイプの存在を意識されたりすることはありました? これが本城サウンドだ、みたいな。

本城:自分でサウンドを作るわけじゃないからね。アレンジャーを立ててやってくわけで。ただ、常にそのアーティストを作品として一番良く見せられる、そういうことが僕には大事だったんで。フィル・スペクターだと、全部フィル・スペクターになっちゃうじゃないですか。でも、それぞれのアーティストはそれぞれ求めてるものとか個性も違うわけだし。
 でも、そういう中でも、やっぱり自分の色というものは出ますよね、やっぱり。そうしたいってわけじゃなく、何らかのかたちで出てるな、って気はしますよ。選曲の段階で出ちゃう場合もあるだろうし。こういう曲は絶対入れたくないな、っていうのはあるし。まあ、一概には言えないですけどね。
 まあ、僕にも音楽の才能があったら、自分でレコード作りたいな、って思った時期もありましたよ。アル・クーパーみたいに。うらやましいな、って思ってたし。アル・クーパーはあの頃好きだったから。
 ただ、僕は基本的にはポップス好きのポップス人間だから。森山良子にしたって、僕はフォークをやらせるつもりはなかった。まあ、きっかけはフォークではあったけど、彼女を通じて日本の新しいオリジナル・ポップスを作りたい、って思っていろいろやってきましたし。そこで、村井邦彦と山上路夫のコンビっていうのは、日本で一番新しいポップスを作れるな、って思って一緒にやってたし。まあ、ヒットはしなかったけど「雨上がりのサンバ」とかね。そういうのは森山良子にしか出来ない、って思ってたし。

大江田:いい曲ですよねえ。あの曲、僕はディレクター時代にやまがたすみこでカヴァーしたんですよ。中学生のときに聴いた「雨上がりのサンバ」が忘れられなくて。

本城:ああ、ほんと? あれは彼女のキャリアの中でもベスト5に入ると思うし。ああいう路線で続けていきたかったんだけど、まだ彼女ももうちょっと売れなきゃいけないって時期で。あの曲もB面だったんだもんね。その後、彼女は「禁じられた恋」ってのが大ヒットしちゃってね。でも、あれは僕が作ったんじゃないんです。僕だったら絶対に起用してない作曲家で、アレンジで。ただこれは、会社的な判断でね。本人も最初は抵抗あったみたいで。今じゃ、もう平気みたいですけどね。
 僕はどっちかと言うとアルバム志向なんで。シングルが一発すごい売れちゃうと、アルバムがダメになっちゃう場合ってのもあるしね。僕は大橋純子でも同じような経験をしてるし。「たそがれマイラブ」のときとか。曲はいいんですよ。でもね、ああいうものが出ちゃうと、ユーザーもアルバム志向じゃなくなってきちゃうんだよね。

大江田:「たそがれマイラブ」ってカーリー・サイモンの曲とAメロ一緒じゃないですか。でも、サビは京平さんの方がいいんですよね。

本城:あれは意識して作ったんだよ。打ち合わせのときにカーリー・サイモンの名前出たもの(笑)。

大江田:京平さんって、変な話、火事場のばか力みたいなのが、ものすごくあって。ぐうーっと追いつめられたときに、ものすごいものがひねり出されてくるんですよね。

本城:でも、京平さんでやると、良いんだけど、やっぱり歌謡曲になるんですよ。

松永:作曲家では村井邦彦さんの名前も出ましたけど。

大江田:でも、村井さんは「30万枚を越えない」って当時言われてたんですよね。

本城:「エメラルドの伝説」は売れたけどね。

大江田:メンタリティとしてベトついたものが村井さんは出来ないんだけど、京平さんには出来るんですよね。

本城:そう。何か日本人の機微を捉えるのが上手い人なんだよなあ。僕なんかGSのときから、例えばジャガースなんかにも曲書いてもらったけど。確かにいいんだけど、でも本来、ジャガーズがやるべきものじゃないんだよな。京平さんは常に「京平ミュージック」になっちゃうんですよ。
 村井邦彦と言えばねえ、ひどいんだもん(笑)。こっちが曲のイメージ話すじゃない。そしたら、彼は曲を断片で持っきたことがあったんだよね(笑)、AとかBとかCとか。その中から「これとこれ」(笑)。ま、毎回じゃなかったけどね。

松永:それを決めたのが本城さん。

本城:うん。「じゃあ、これとこれで」(笑)。

大江田:まるで「ブーベの恋人」のように(笑)

本城:(笑)。ま、そういうこともあったと。


「曲の発注考えてるうちに、自分で譜面書いちゃってた(笑)」

大江田:僕は「雨上がりのサンバ」を聴いて以来、山上(路夫)さんと仕事するのが夢で、仕事が出来るようになってからお家にお邪魔する機会とかもあって、非常にいくつか印象に残るお言葉をもらったりして。村井さんとはお仕事することは出来なかったんです。もう社長業の方に専念してらして、曲を書いてらっしゃらなくて。
 山上さんに「君は詞が判るから」って言われたときは、それが勲章みたいにうれしかったですね。

本城:山上さんの詞は僕も好きだったなあ。

大江田:山川啓介さんも良かったですね。

本城:あのふたりは、いずみたくさんの下で一緒だったんだよね。
 ただ、僕なんかが思うのは、今はシンガーソングライターで、みんな自分で曲作ってるけど、やっぱり作家をね、新しい、いいセンスを持った作家を見つけるっていうのは、ホント苦労しましたよね。作品によってアーティストの運命が決まっちゃうんだから。

大江田:本城さんがどういう作家を使っているか、っていうのは周りはみんな気にしてましたけどね。僕たち後輩は。

本城:あんまり名前では選ばなかったですね。やっぱり、こういう新しいものには新しい感性が欲しい、っていう欲が強かったから。

大江田:瀬尾一三さんっていう、遅刻が多くて非常に使いづらいと言われていたアレンジャー、ま、遊んでるわけじゃなくて直前まで悩んでるからなんですけどね、そういう人を、一番うまく使っている、って僕らは思ってたんですけど。

本城:でも、無理なことも結構やらせたけどね。瀬尾ちゃんなんか弦のアレンジしたことないのにやらせたりとかさ(笑)。
 僕、アレンジャーに初めて仕事させたこと結構多いですよ。村井邦彦もそうだし。長谷川きよしの「別れのサンバ」のアレンジも、実は村井君なんですよ。萩田光雄のヤマハ以外での最初の仕事もそうかな。小室哲哉も結構早く使ったんじゃないかな。TMネットワークがデビューする前だもん。いいセンス持ってるな、って思いながらね。

大江田:こうやって仕事の話とか、出てくるお名前とかお訊きしてると、どこかドライって言うか、日本的な湿り気じゃないんですよね。

本城:そうでしょうね。僕が歌謡曲が好きじゃない、ってこともあるんですよね。関心が無い、っていうか。合わなかったし。アレンジャーと話してても、弦の編成とかね。川口真さんなんか僕よく一緒に仕事してたんだけど、あの人は、それまでの弦のアレンジとはまた違うやり方をした人で。日本の歌謡曲のそれまでの弦っていうのは6・4・2・2(注:第1ヴァイオリン6名、第2ヴァイオリン4名、ヴィオラ2名、チェロ2名。日本のスタジオ録音独特の習慣的編成)の構成でしょ。川口さんは、それに加えてかならずオーボエとホルンを使うんですよ。それってクラシックでは当たり前なんですよ。多分、ビー・ジーズなんかはそういうやり方をしてたと思うんですよね。とにかく、僕は彼の弦アレンジが好きで、GSでもよく仕事しましたよ。
 ただ、僕も若い頃はいろいろ作家に失礼なことしちゃったって言うか。打ち合わせに行くじゃないですか。新人を出すときに、自分でどういう楽曲でデビューさせようか考えるわけじゃないですか。こういうタイプで、リズムはこんな感じで、メロディはこうで、とかさ。そうするともう、自分で譜面書いちゃってさ、「こんな曲がいいんだけど」(笑)とか言っちゃって。川口真とか、かなり親しかったからよかったけど、失礼だよねえ(笑)。

松永:作曲家がもうやること無しっていうか(笑)。発注の域を越えてますね(笑)。

本城:「こういう感じ」どころじゃないもんねえ(笑)。これは最近、もうオフレコになってないんだけど、カーナビーツが「好きさ好きさ好きさ」やったじゃないですか。あれが売れて、じゃあ第二弾ってことになって、「えぇー? こういうセンスのある曲書ける日本人って誰だろう?」って思い浮かばなくてさ。結局、悩み悩んでるうちに、イメージ考えてたら自分で曲が出来ちゃうわけですよ(笑)。だから、第二弾(注:「恋をしようよジェニー」)は僕の曲になったわけ。

松永:クレジットはどうされたんですか?

本城:そのときは何だっけな? 「藤まさはる」だ。ゲイリー・ウォーカーのときは別の名前(注:乗輪寺モトオ)で(笑)。ホントは社員はそういうことをやっちゃいけないんだよねえ。

松永:そんなディレクターの人なんて今でもいますかねえ?

本城:いや、もう最近はいないでしょう。

大江田:音楽的なことをディレクターがミュージシャンに言うのは「言い過ぎ」だっていう風潮があるんですよね、今は。後見人的に名前が出てくることはあっても。

松永:例えば、ピコのアルバムでも、樋口さんの素晴らしい才能があって、でもそれを詞を発注したりして環境をディレクションしながら作品のかたちを作ってゆく、音楽を作る側の作家主義みたいなものが重要だったと思うんです。そういうものが今、軽視されてる気がします。

本城:そうですね。中にはいると思うんだよね。歌だけやたら上手いんだけど曲書けない、とかさ。今は分業の時代じゃないからさ。

大江田:演歌の世界だけになっちゃいましたもんね。

松永:バンドでも、結局、その中だけで処理しなくちゃならないとかね。

本城:でも、本当はいると思うよ。作曲だけ才能があって、歌は上手くないし、ルックスも悪いし、でもいい曲を書ける(笑)。いると思うんだよ! 今は全部の要素を自分で持ってないといけないんだもんねえ。
 僕、唯一、結果的に美味しい魚を逃したってのがあってね。この女の子を僕は歌手としてやろうって気がなかったのに、歌手になっちゃった、ってのがユーミンなんだよね。
 ホント、あのときすごいいいセンスをしてるな、って思っててさ。日本にもこんな曲書ける子がいるんだ、って思ったのにさ。でも、ユーミンを歌手でやる、っていう発想がまったく無かったんだよなあ(笑)。これは失敗と言えば失敗ですねえ。そこまで見抜かなきゃいけなかったんだねえ(笑)。

大江田:当時から彼女はスタジオとかに出入りしてたんですか?

本城:僕がALFAに紹介したんだもん。覚えてるのは、71年、加橋かつみのシングルのレコーディングで、彼女の書いた曲(「愛は突然に」)が初めて取り上げられることになって。彼女の曲の入ったデモ・テープを加橋かつみが聴いて、その中からあの曲を選んだんだよ。それで録音のときに彼女がやって来てて、なりゆきでピアノを弾いてもらってね。彼女が自分で作ったときのキーがAだったんで「Aでしか弾けない」って言うから、Aでやったんだ(笑)。それが彼女が高校3年のときだった。そのとき、ALFAに紹介したんだよ。ALFAも最初は作家として彼女を扱ってたはずなんだけど、そのうち自分でも歌うようになっていった、と。で、ユーミンのアルバムがやっと出来た、と。それが『ひこうき雲』で。やられた、お見事(笑)。


「今のレコード会社に、いいものを作ってゆくための推進力ってあるのかな?


本城:最近も僕、スタジオの仕事もやってるんですよ。今年出たやつなんだけど、加藤紀子が僕と何か気があって、ミニ・アルバムやったんですよ。これ、何が面白いって、僕と小西(康陽)君の初めての仕事なんだよね(笑)。

松永:これが初めてなんですか?

本城:そう。で、カップリングでフランス・ギャルの「ジャズる心」やってるの。これは僕が訳詞もやって、もともと僕が書いたのを彼女がちょっとアレンジして。

松永:小西さんと仕事されるのはいかがでした?

本城:いや、僕はもう全部まかせっきりで。彼に口出し出来ることなんてありませんよ、ほとんど。歌入れのときだけ、ちょっと言ったくらいで。

松永:もっと仕事して欲しいと思うんですけど。小西さんも、本城さんの視線をかなり意識したと思いますよ。

本城:(笑)。私も還暦迎えましたからね(笑)。こういうじいさんにはなかなか新しい仕事は来ないですよ(笑)。

松永:でも、スタジオに入ると、やはりちょっとは湧き立つものがあるんじゃ?

本城:キライじゃないだろうね。

大江田:スタジオでも、中に入らないディレクターの人とかいますもんね。

本城:そうだね。たまにヒトのレコーディングで行ったりしても、何かヒトの仕事って気になってくんだよね。イライラしたり(笑)。
 でも、昔と今とは違うね。やっぱりマルチ・レコーディングの世界ではさ、アレンジャーとかサウンド・プロデューサーがスタジオを仕切ってるじゃない。僕らが始めた頃ってのは、アレンジャーは中で棒振ってるわけで、それに一発OKを出すのはこっちなわけじゃない。ディレクターって役回りも随分変わったよね。昔は、ひとつの仕事とってもすごい緊張感があったよね。その代わり、一枚アルバム作るのにも、そんなに時間がかかんないっていうかさ。何日かあれば出来ちゃうっていう。

大江田:多分ね、そのアーティストや、もしくは自分の夢みたいなもののことをいつも考えていて、一番ホットになってる人が絶対いなくちゃいけない商売なんですよ。そのアーティストのことをずうーっと考えてて、それを周りにも言って、説得して、実現して、っていうことをやってきたと思うんです。それが、ちょっと違う空気になってきたかな、って感じますけどね。

本城:今は、レコード会社でも、周りのケアばっかりしててさ。本来必要な、いいものを作ってゆくための推進力にはなってないんだよね。

大江田:ケンカして他の会社行かれちゃ困る、みたいな雰囲気がね。

本城:昔は若かったってこともあるけど、アーティストにそんなに気を回したりするなんて無かったんだよね。今見ると、みんな「エライ!」って思うんだよ(笑)。ほんっとに気を使ってるからね。僕なんか、アーティストに怖がられてたこともあったし。ショーケンなんかさ、オレのこと「センセイ、センセイ」って呼んでたんだもんね(笑)。

松永:60年代から70年代のこういう世界でもっとも精力的に仕事をされてたわけなんですけど、竹中労が書いてる昭和40年代の渡辺プロの話とか読むとすごいものがありますよね。

本城:僕はナベプロとは仕事したこと無いんですよ。ジャニーズ事務所ともサンミュージックとも芸映ともしたこと無い。結局、僕はヒットが続いて恵まれてたっていう部分もあるけど、マイク真木にしても、尾崎紀世彦にしても、みんなそんな大きなプロダクションに在籍してたんじゃないし。スパイダースだって最初はホリプロだったけど、田辺昭知はすごいユートピア的な野望に燃えて、ちゃんとした目論みでスパイダクションを作ったわけだし。余計なパワーゲームとか、バーター(交換条件)なんかに頭悩ますくらいなら、プロダクションなんか関係なくやりたい仕事をしよう、って思ってた。僕は芸能界は好きじゃない。音楽界が好きだったんですよ。

10月17日 渋谷Les Jeuxにて

本城和治さんの代表的仕事 1963-1975
(注:継続して担当したアーティストは、基本的にデビュー曲、または初担当曲のみ掲載)

●洋楽
1963(昭38)
ヘイ・ポーラ/ポールとポーラ
涙のバースディパーティ/レスリー・ゴーア
さすらいのギター/ザ・サウンズ

1964(昭39)
ドミニク/スール・スーリール
二人の星をさがそうよ/ポールとポーラ
マイ・ボーイ・ロリポップ/ミリー・スモール
悲しきラグ・ドール/フォー・シーズンス
シェルブールの雨傘/O.S.T.
ブーベの恋人/O.S.T.
リトル・ホンダ/ザ・ホンデルズ
ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー/ルイス・アルベルト・デルパラナとロス・パラガヨス
砂にきえた涙/ミーナ

1965(昭40)
赤い砂漠/O.S.T.
君に涙とほほえみを/ミーナ
あなたが好きなの/ミリー・スモール
ある晴れた朝突然に/モーリス・ルクレール・アンサンブル
別離/ミーナ
森を歩こう/ホルスト・ヤンコフスキー
夢見るシャンソン人形/フランス・ギャル
哀愁のカレリヤ/ザ・フィーネーズ

1966(昭41)
この胸のときめきを/ダスティ・スプリングフィールド
サニー/ボビー・ヘブ
いとしのルネ/ザ・レフト・バンク
恋はワイルド・シング/ザ・トロッグス
孤独の太陽/ザ・ウォーカー・ブラザース

1967(昭42)
ウィンチェスターの鐘/ザ・ニュー・ボードビル・バンド
愛しておくれ/ザ・スペンサー・デイビス・グループ
ダンス天国/ザ・ウォーカー・ブラザース
ハンキー・パンキー/トミー・ジェイムスとシャンデルズ
想い出の日曜日/スパンキーとギャング
君の瞳に恋してる/フランキー・ヴァリ
オーケイ!/デイヴ・ディー・グループ
恋はみずいろ/ヴィッキー
ペイパー・サン/トラフィック

1968(昭43)
マイティー・クイン/ザ・マンフレッド・マン

●邦楽
1966(昭41)
ノー・ノー・ボーイ/フリ・フリ'66/ザ・スパイダーズ
夕陽が泣いている/ザ・スパイダース
バラが咲いた/マイク真木
いつまでもいつまでも/ザ・サベージ
若者たち/ザ・ブロードサイド・フォー

1967(昭42)
この広い野原いっぱい/森山良子
燃えろサーキット/ザ・リンド&リンダース
君に会いたい/ザ・ジャガーズ
好きさ好きさ好きさ/ザ・カーナビーツ
たそがれの御堂筋/坂本スミ子
忘れ得ぬ君/ザ・テンプターズ
野ばらの小径/ザ・マイクス
あなたのすべてを/佐々木勉

1968(昭43)
涙でかざりたい/江美早苗
小さなスナック/パープル・シャドウズ
ミッキーズ・モンキー/デ・スーナーズ
マイ・ラブ・マイ・ラブ/ザ・ヤンガーズ
ドアをあけて/ザ・リリーズ
ひかげ花/藤武士とシックスロマン

1969(昭44)
別れのサンバ/長谷川きよし
昨日のように/ソウル・エイジェンツ

1970(昭45)
「再確認そして発展」(LP)/菊池雅章セクステット
モーニング・サービス/シモンサイ
愛の歓び/ジュテーム
どうにかなるさ/かまやつひろし
天満小唄/タロー&はなこ
ライダー・ブルース/クック、ニック&チャッキー
別れの夜明け/尾崎紀世彦
紹介/川辺妙子
タンピロ・トレラカ・トケテンテン/南雲修治
泣いてる長崎/西城秀

1971(昭46)
明日に死すとも/上月晃
昨日・今日・明日/井上順
ビジョン/ミッキー・カーティスとサムライ
愛は突然に/加橋かつみ
メリー・ジェーン/成毛しげるとつのだひろ
ノアの円盤/ラブ・ストーリー
「銀界」/山本邦山

1972(昭47)
あのとき/ピコ(樋口康雄)
マイ・ロスト・ラブ/小川みき

1973(昭48)
ウェスタン・ジョニー/キャプテンひろ&スペース・バンド
小さな旅/真木ゆうこ
明日を信じて/奥野秀樹
まもなく朝/日高義夫

1974(昭49)
鍵はかえして/大橋純子
遠い海の記憶/石川セリ
ラスト・チャンス/キャロル

1975(昭50)
二人の舞踏会/丘蒸気
あの頃/ペザンツ 

 「インタビューの参考になれば」と、本城さんから手渡されたリスト。現物は丁寧な字で手書きされたもので、それをお見せしたいのはやまやまだが、それはまたの機会(例えば、この連載が本になる?とか)ということで。ここではインタビューの話題になった時期にしぼって再構成したものを掲載した。意外な名前も多い中で、特に驚かされたのがキャロルのラスト・シングル「ラスト・チャンス」。永ちゃん本人から本城さんへ指名があったんだそうだ。(松永)


本城 和治
 本城さんは僕がスタジオの仕事をしていた70年代に、ヒット・ディレクターとして業界で知らぬものは無い存在でした。若手の作家・アレンジャーを大胆に起用し、斬新な音楽を創り出していたこともありますが、僕がひかれたのは、日本的な情緒とは縁遠い洋楽的センスと軽みをたたえた作品を制作されていたことでした。
 いわばスター・ディレクターと言うべき存在だったと思うのですが、まったく偉そうになさらず、ひょうひょうとなさっていたのが印象に残っています。SSWが音楽づくりの本道ではないと言うつもりはありませんが、プロのぶつかり合いが作品を生みだしていた時代のまっただ中を、突き抜けるかのように走って来られたのだろうと想像します。それは本城さんが、まぎれもなく、プロだったことの見事なあかしなのだろうと、今になって気づきました。(大)
 

| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |

▲このページのTOP  
▲Quarterly Magazine Hi-Fi index Page