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●亜米利加レコード買い付け旅日記 8  大江田信

アメリカの北の果てミネソタとボブ・ディラン

 1941年5月24日、ボブ・ディランこと、ロバート・アレン・ジンママンは、ミネソタ州ドゥルースに生まれた。ドゥルースは人口8万5千人ほどの小さな都市で、カナダと国境を接するアメリカ中北部のミネソタ州でも、とりわけ北に位置している。おとなりカナダまで車でほんの3時間半ほど。ドゥルースより北のミネソタには、もう街らしい街はない。
 とにかくミネソタを有名にしているのは、その冬の寒さだ。アメリカ人の誰に聞いても、顔をしかめながら、ミネソタの寒さは天下一品だと言う。日本との合弁企業に勤めているというロジャーは、「先週は零下20度近くまで下がったんだ。手にしたバラを落としたら、まるで硝子が割れるように、粉々に砕けたのさ」と言いながら、この寒さを報じた新聞をぼくに差し出した。地元の人達の口ぶりには、「どうだ、寒いだろう」という奇妙に誇らしげな空気がにじむ。エアラインのカウンターの係員は、「どうです、ミネソタの天気は?今は零下3度ですね。雲の上に行ったらもっと寒いんですよ。いやいや、これはジョークですけど」とまあ、こんな調子だ。
 そのうえミネソタの冬は長い。10月下旬から4月上旬まで、街という街はほとんど雪に埋めつくされる。部屋ごとに冷蔵庫などない質素なモーテルに泊ってたって、パーキングに停めた車の中にホンの30分ほど放っておけば、冷たい極上のビールにあずかれるほどだ。
 ボブ・ディランは、大学生活をミネソタ大学ミネアポリス校で過ごした。1959年の10月に、大学の近くのコーヒー・ハウス、「テン・オクロック・スカラー」に飛び込み出演したのが、彼の音楽の初キャリアだという。その時ディランは18歳だった。1961年、20歳の時にはシカゴを経てニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにたどり着く。彼の2作目のアルバム、「フリー・ホイーリン」に収められた「ボブ・ディランの夢」は、彼がヴィレッジに落ち着いた21歳の頃に書かれた作品だ。彼が本格的に自作の歌を書き始めた頃の歌の一つだ。

 

もう一度だけ戻りたいあの日

 この「ボブ・ディランの夢」は、P、P&Mこと、ピーター・ポール&マリーのアルバム「アルバム1700」に収録されているのを聞いて知った。当時まだ中学2年だったぼくは、悪戦苦闘しながら英語の歌詞を訳した。なにしろP、P&Mはそのころの僕の一番好きなアーチストで、中学2年からせっせとクラス・メイトとコピー・バンドをやっていた。しばらくして作者ディランのバージョンを聞き、そのほか彼が書いた歌を知るうちに、あのディランにしてこんなにやさしい歌があるのかと驚くことになる。
 P、P&Mのこの曲では、ピーター・ヤーローがリード・ヴォーカルをとる。もとよりセンチメントがやや過剰なピーターだが、ぼくにはそれがこの歌の好ましい表情だった。作者ディランが歌う「ボブ・ディランの夢」は、案の定のぶっきらぼうぶりで、ときおりやや感傷的なトーンがそっとまぎれ込む。

 

ボブ・ディランの夢

 

西へ向かう列車の中で

ちょっと休もうとして眠ってしまった

すると悲しい夢を見た

僕自身と

僕が初めて得た幾人かの昔の友人についての夢

 

涙のにじむ目で部屋をながめる

そこは友人達といくたびも午後の時間を過ごしたところ

僕らはそこで数多くの嵐を経験し

そして朝がくるまで

笑い、歌った

 

古い暖炉のそばに帽子を掛けて

語り合い歌った

その他に何も望まず充分に満足していた

僕らをとりまく世界について語り合い

ジョークを飛ばしあった

 

暑いときも寒いときも情熱をかたむけた

老いることなど考えもしなかった

いつまでもあんな風に

楽しく過ごしていけると思っていた

でもそんなチャンスは万に一つだったのだ

 

黒と白を言いわけ善と悪を言い当てることは

簡単な事だと思っていた

選ぶことの出来る道は数少なかった

僕らがやがてバラバラになるなんて

考えもしなかった

 

あれから何年たったことだろう

賭けに勝った奴も入れば

負けた奴もいる

それぞれが様々な道を選んだ

もう誰とも会っていない

 

願っても、願っても、無理なことだけれども

できることならもう一度だけ

あの部屋にもどりたい

僕らのあの日々が可能ならば

1万ドルだって惜しくない

 

(大江田信訳)

 

 アルバムに解説を寄せているナット・ヘントフによれば、ディランとオスカー・ブラウンJr.がグリニッジ・ヴレッジで一晩中語りあかした体験が、この歌のそもそもの発端だったということだ。「この曲のアイデアは彼と話している間に浮かんだものなんだ」とディランは語っている。その後、実際に歌が書かれるまでに、少しの間あいだ彼の頭の中で温められていたという。

 

寒さが鍛えるもの

 さてこの先は全くの僕の推測だ。
 「ボブ・ディランの夢」が描き出す風景は、ディランが大学時代を過ごした街、ミネアポリスでの出来事に違いないと思う。というのも歌詞に登場する「帽子」がそのヒントだ。
 自分の車などあるはずもなく、バスや自転車や徒歩で大学に通うミネソタの学生たちにとって、なにより冬の必需品は「帽子」である。なにせ外に出ると、耳がちぎれそうに寒い。間違いなくほとんどの学生は耳深く帽子をかぶり、背を丸め白い息をはきながらバスを待ち、キャンパスを行き交う。
 そしてひとたびコーヒー・ハウスのドアを開けるならば、そこには暖房の効いた別世界が待っている。コートを脱ぎ帽子を掛けると、次は暖かいコーヒーの番だ。古い暖炉、友人達、ギターを手に歌い語りあかし、ジョークを飛ばしあった夜。ディランは初々しい学生時代の自分を懐かしむ。
 歌詞の5番の冒頭では「白と悪、善と悪を言い当てることは簡単な事だと思っていた」と歌われる。物事の善悪を、簡単に決め付けることが出来た若さを回想している一節だ。年齢を重ね、暮らしの歩みを進めると、様々な側面から物事が見えるようになり、単純には白と黒を指摘しにくくなる。それは人生の初めての苦渋の経験と共に知らされるものでもあるだろう。
 またこの歌をこんな風に、聞くことも出来るかもしれない。
 はっきり明確に「悪」と指摘されなければならない世の「悪」がある。それもこの歌の書かれた60年代初頭という時期の、公民権運動やベトナム侵略という大きな問題を抱えていたアメリカを考えあわせると、いささか深刻だ。そうしたアメリカの「悪」の糾弾に立ち上がる良心の運動が広がっていた時期である。
 同じアルバムに収録された「風に吹かれて」などの作品によって、ほどなくしてディランはプロテスト・ソングの旗手として持ち上げられ、フォークのプリンスと呼ばれることになる。それはすなわち、今や彼こそが善と悪の指摘者だ、という意味だ。現に人々は彼をそう受入れた。ところがディランは「自分はプロテスト・ソングなど書いたことはない」と後になって述懐した。
 「プロテスト・ソング」とは、世の悪を言い当て、それを高い立場から指さし糾弾することだとするなら、ディランの発言の真意が解る。このごく初期に書かれた作品において、ディランはそうした歌の不毛をひっそりと予感している。「プロテストソング」の持つ鼻持ちならない正義面に、不快感を感じている。すでに彼はそういう場所にたどり着いていたのだ。それはディランにおいて、詩人の視線の獲得だったに違いない。
 ミネソタの空気がはらまれたSSWと音楽を、少し取り上げておこう。
 マイケル・ジョンソンはカナダに生まれ、フォーク・トリオのチャド・ミッチェル・トリオに一時期参加した後、スペインを放浪する。そののちミネソタで修行時代を過ごし、ナッシュビルに転じて成功した。ミネソタ時代に残したサンスクリット・レーベルの3枚のアルバムは、きびしく透明な抒情を残す名盤だ。
 グレッグ・ブラウンの音楽も、味わい深い。「天使の兵隊」のヒットで知られるオリジナル・キャストのメンバーとして出発し、作家やプロデューサーを経て、現在ではブルースをベースにしたフォークをソロ演奏している。作品はすべてセント・ポールを本拠とするレーベル、レッド・ハウスから発売されている。
 「寒さ」には、人の想いを凝縮させる力がある。人に胸のうちをのぞき込ませ、これを確かめさせ、これを鍛える。しかも細密に、緻密に。
 ミネソタの冬は、そんなことを思わせる。

 

 

大江田信


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