【テキスト】
『万葉集』や『古事記』が書かれたころ、日本にはまだ平仮名も
片仮名もなかった。
上代の諸作品は、外来の文字で自分たちのことばを書き表そうと
した人々の、血のにじむような努力の結晶なのである。苦闘の痕跡
は個々の表現にも刻まれている。テキストを求める際には、ぜひ本
文(漢字の原文)がついたものを選ぼう。
もっとも、たとえば、
茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流
という文字列を見て、「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は
見ずや君が袖振る」とすらすら読める人はめったにいないだろう。
この額田王の歌は、高校の教科書や各種の入門書・秀歌選では、たい
てい仮名混じりに書き下されている。作品に親しむためなら、それで
不都合はない。だいいち、黒々とした漢字の群れを前にいちいち首を
ひねっていたのでは埒があかない。
しかし、原文は、あらゆる解釈が常に立ち返るべき原点である。
「あかねさす紫野行き標野行き……」はあくまでも訓読文であって、
原文ではない。訓読文にはすでに一定の解釈が含まれているし、その
解釈はことによると不適切かもしれないのである。
以下に、『万葉集』『古事記』『日本書紀』のテキストを示す。
○新編日本古典文学全集『万葉集』全4冊(小島憲之ほか)
1994〜1998 小学館
[『万葉集』の最近のテキスト中、もっとも信頼性が高いもの。
訓読文・原文のほか、頭注・現代語訳つきで、各冊の解説も有益。]
○新日本古典文学大系『万葉集』全4冊(佐竹昭広ほか)
1999〜2003 岩波書店
[最新の全注で、上記の本と比較しながら読むとおもしろい。]
○新編日本古典文学全集『古事記』(山口佳紀ほか)1997 小学館
[『古事記』研究の最新の成果を凝縮。「日本神話」といった漠然
たる把握をしりぞけ、一冊の書物として読み抜こうとする。]
○日本古典集成『古事記』(西宮一民)1979 新潮社
[『古事記』のテキストとしてもっとも普及しているもの。原文が
付いていないが、巻末付録「神名の釈義」は有益。]
○新編日本古典文学全集『日本書紀』全3冊(小島憲之ほか)
1994 小学館
[『日本書紀』の最新テキスト。訓読の方針に新機軸を打ち出す。]
○岩波文庫『日本書紀』全5冊(坂本太郎ほか) 1995 岩波書店
[旧版・日本古典文学大系所収のものを、文庫版に組み直したもの。
やや古いが廉価。]
【入門書】
『古事記』を通読するには休日が3日もあれば事足りるが、『万葉集』
は一続きの筋立てのない歌集なので、4500首以上の歌々――しかも
秀歌ばかりではないと来ている――を記載順に読み進めるのはかなり
骨が折れる。そこで求められるのが適切な入門書である。世の中には、
自称文化人の書きなぐった「私の万葉集」だの、タレント本まがいの「フェ
ミニズム古事記論」だのも横行しているが、まずは下記の諸書を手に取
るようお勧めする。
○土橋寛『万葉開眼』上・下 1978 NHKブックス
[『古事記』『日本書紀』『風土記』の歌謡の研究を主導してきた著
者が、歌謡の構造と機能に関する知見に立脚して、『万葉集』の
創作歌を読み解いたもの。主要歌人ごとに作品を解説する体裁
になっている。]
○西郷信綱『万葉私記』1970 未来社
[表現の細部を見逃さず、そこから作品や時代の全体をつかんで
ゆく手際が見事。]
○斎藤茂吉『万葉秀歌』改版 1968 岩波新書
[近代日本の出版事業を代表する一大ロング・セラー。]
○西郷信綱『古事記の世界』1967 岩波新書
[古事記神話の分析に構造主義を応用した早期の成果。]
○神野志隆光『古事記と日本書紀』1999 講談社現代新書
[前記の新編日本古典文学全集『古事記』と同じ立場から『古事記』
と『日本書紀』のそれぞれの特質を解説。]
【注釈書】
上代文学の世界について大まかな見取図が得られたら、今度は自力
で歩き回ってみよう。作品を熟読するのだ。入門書には触れられていな
いような小さな路地裏にも、意外に素敵な出会いが待ち受けている。
ただ、袋小路に迷い込まないためには詳しい地図が必要だろう。下
記の諸書が役に立つはずであるが、旅の愉しみはむしろ、地図に載っ
ていない道を見つけることにある。
○ 沢瀉久孝『万葉集注釈』全22冊 1977 中央公論社
[『万葉集』の注釈書は無数にあるが、まずひもとくべきもの。それ
までの諸注が集大成されていて、注釈の態度も詳細かつ堅実。]
○ 諸家『万葉集全注』全20冊(刊行中)1983〜 有斐閣
[戦後の研究蓄積を踏まえた注釈だが、巻によって出来映えに差
がある。]
○和歌文学大系『万葉集』全4冊(稲岡耕二)1997〜 明治書院
[万葉歌の世界をダイナミックに捉える視点に特色があり、創見に
富む。訓読文・原文に脚注と補注を付す。ただし刊行途中。]
○伊藤博『万葉集釈注』全11冊 1998 集英社
[個人の手になる最新の注釈。]
○西郷信綱『古事記注釈』全4冊 1989 平凡社
[本居宣長『古事記伝』以来の膨大な研究蓄積があるが、なかでも
有益な書。作品と読者のスリリングな関係に気づかせてくれる。]
○神野志隆光・山口佳紀『古事記注解』全11冊(刊行中)
1993〜 笠間書院
[前記の新編日本古典文学全集『古事記』と同じゴールデン・コン
ビによる、詳細極まる注釈。]
【研究の指針】
演習の発表を準備したり、論文をまとめたりするための指針となる文献
を紹介しよう。
○学燈社『別冊国文学』シリーズ
[『万葉集事典』1993、『万葉集必携』1979、『万葉集必携U』1981、
『日本神話必携』1982、『古事記日本書紀必携』1995、
『万葉集を読むための基礎百科』2003]
○品田悦一ほか共編『〈うた〉をよむ――三十一字の詩学』
1997 三省堂
[古典和歌から現代短歌までの総合的手引書。歌と楽しく付き合うため
の糸口の見つけ方と、迫り方を示す。主要研究文献の解説つき。]
○坂本信幸・毛利正守編『万葉事始』1995 和泉書院
[『万葉集』を調べるための基礎知識をまとめたハンドブックで、
利用価値大。]
○『セミナー万葉の歌人と作品』全11冊 1999〜2005 和泉書院
[昭和50年代以降の万葉研究史を集大成する企画。]
○学燈社「国文学」の上代文学特集
[上代全般……32巻2号、33巻1号、44巻11号、48巻14号など。
万葉関係……28巻7号、30巻13号、35巻5号、49巻8号など。
神話・記紀関係……29巻11号、33巻8号、36巻8号、39巻6号など。]
○至文堂「国文字 解釈と鑑賞」の上代文学特集
[51巻1号、62巻8号など。]
【ウェブ・サイト】
○「上代文学会」
[機関誌『上代文学』の全目次(創刊号〜最新号)が見られるほか、
大会・例会などの催しの案内もあり、関連学会・機関ともリンク
している。]
○「万葉集の宅頁」
[大阪女子大の村田右富実氏の個人経営サイト。万葉集本文・万葉
年表・人麻呂関係研究文献目録などが利用できる。]