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Yasunari Morimotoの'Live Scraps'No.11

「Definitely Maybeは水道橋の夜空に響くか」
 僕が毎日仕事場へ行くために通過する駅前の商店街は、朝10時になるかならないか、という時間から、電柱にくくりつけられたスピーカーを通して宣伝用の音楽を流すことを営業活動の一環としています。
 例えばクリフ・リチャードの「コングラチュレーション」とか「星に願いを」とかそういう曲のインストゥルメンタル。その合間に「毎日新鮮な魚をお届けする太平鮮魚、太平鮮魚へどうぞ♪」とかなんとかそんな女性の声でアナウンスが入る、と。

 で、それはどうやらエンドレス・テープになっているらしく、たぶん「カラベリ」あたりのオーケストラだと思うんだけど、まあそういう手合いの楽曲7〜8曲くらいが繰り返し鳴っておる。これ、個人的にえらく困っているんです。

 つまりですね、考え事をしながら歩いていてもどうやら無意識にこれを聴いているらしくって、駅について本を読もうと頁を開いても頭の中で今聴いた音楽がリフレインされて本に集中できない。
 眼では「冬のことで、食道楽の三津五郎は鍋のおでんをしきりにすすめるが……」なんて文字を追っていても、頭の中には「♪コングラチュレーショーン♪」という音楽が駆けめぐってゼンゼン脳へ入ってこない。ある種「音の暴力」ではないか、とすら感じるわけです。

 そんなことを考えていて思い出したのがここのところ書いている大学生時代。いつも、四六時中音楽を聴いている生活の中で、「自分が好きな音楽を自由に聴きながら街を歩けたら楽しいこと、いかばかりか」
と思いつき、今から思えばずいぶん巨大なラジカセ(縦25センチ×横35センチくらい。推定重量3キロ)をショルダーバッグに入れて、イヤホン(もちろんモノラルで片方の耳に入れるタイプのもの)をつないで持ち歩いたこと。重かったけれど目に映る街の風景が一変したことを思い出しちゃった。

 考えてみると、「眼からはいる情報」と「耳からはいる情報」というのは、気がつかないけれど脳の中で「記憶の引き出し」が存外近いところにあって、「音楽」と「印象深い風景」は互いに影響しあうために、一種独特の記憶を作るのではないか、という気がします。つまりその二つを組み合わせる状態、つまりウォークマンや車のカー・オーディオなどが原因でよくこの手の記憶が醸成されるんではないか、というわけです。ブライアン・イーノの「空港のための音楽」なんてのもありました。

 しかるに世にあまたある楽曲のうちの何曲かは、それを聴くたびに一定のイメージ、あるいは生々しい記憶(もちろん個人的なものですが)を伴わずには聴けないところがあって、それが良いイメージならともかく、えてして「悲しい」、あるいは「恥ずかしい」記憶を惹起することがままあって、それがいい曲であるにも関わらず「どうやってもまともに聴けない」という事態がシュッタイするんですね。しかも、その音楽が自分の好みとは関係なく強制的に耳に入ってくるものだったりした場合においておや。

 してみればこの大学時代の僕の経験は、未だウォークマンが発明される前の話(ウォークマン1号機発売は1979年)だから、現在40歳以下の人達は、僕と比べるとずいぶんその種の記憶の数は多くなっているはずで、それはすなわち今の時点で「若い」ということは(つまりウォークマンを伴う生活が長いということは)、その種の「音楽にまつわる恥ずかしく悲しい記憶」がたくさんあるということなんですね。したがってパブロフズ・ドッグに同じく「平静な気持ちでは聴けない音楽」がいっぱいある、と。

 今の若い人は早いうちから車も持っているし、ウォークマンもカセットにとどまらずMDやCDも聴ける。さぞかしパブロフズ・ミュージックが多いことでしょう。街も昔と比べたらずいぶん音に対して無神経になっている気がするし、大変ですね。お察しします。

 とまあそういうわけで、今回は僕にとって「恥ずかしい記憶」がたくさんあるニール・ヤングの話です。はい。やっとつながりました。
 しかし前回に続いて「前振り」が長いですね。柳家小三治師匠の「噺のまくら」(新潮文庫)みたいになってきたなぁ。あんなにうまくはないけどさ。
             

***

    
 さて、前回書いた通り漫画倶楽部に入って秋を迎え、気がついて周囲を見渡すと、男子学生のほぼ全員がチェックのネルシャツにスリムのジーンズ、足もとは編み上げのワーク・ブーツというファッションになっていた。
 夏にはシャツが半袖のインド綿かダンガリー、あるいは背中に(当時、小野耕世氏などを通じて紹介されたアメリカン・コミックの)イラストレーションが描かれたラガーシャツ、冬にはボタンがスナップ式になった長袖ネルシャツの上にフィッシャーマン・セーターを重ね、その上にランチ・コートを着るというのが定番で、これがいわゆる「日本におけるウエスト・コースト・ブーム」の到来と見えた。
 
 いわば俗世間から離れて隔離された「大学浪人」という生活から現実に戻ってみると、高校時代の「ベルボトム・ジーンズにわりとパチパチのTシャツ」という、ロンドンを基盤にしたファッションから、すっかりアメリカナイズされたものに変わっていたというわけで、なんだか「浦島」の話のようだけど、本当にそんな感じだった。

 雑誌で言うと「anan」から「宝島(植草甚一編集・1974年創刊)」へ移ったというと当時を知っている人はわかるかもしれない。「シャツの襟」で言えば「細くて長い襟」から「小さい襟」もしくは「ボタン・ダウン」になった、そういうことだ。
 実感で言うと、エリック・クラプトンの ' I Shot The Sheriff ' がヒット・チャートで1位になり、「レイド・バック」という言葉が彼の口から出た頃が、個人的な音楽の中心をイギリスからアメリカへ移した時期だったように思う。
 そして大学の生活にも慣れたその年の終わり、12月に「デビッド・クロスビー&グラハム・ナッシュ」が来日する頃になると、それは、つまりウエスト・コースト・ブームはすっかりメイン・ストリームになっていた。

***


 ニール・ヤングが来日したのはその翌年、明けて1976年の3月だった。僕は行かなかったけれど1月にはドゥービー・ブラザースも来日していたし、もうウエスト・コースト人気真っ盛りだ。
 
 ニール・ヤングは75年に 'On The Beach' を出した直後、'ZUMA' で Crazy Horseと組むようになっていたので、コンサートは2部構成だった。ということはご想像の通りで、前半がアコースティックの'HARVEST'バージョンで、後半がCrazy Horseとのロック・バージョンだ。
 会場は武道館。幸運にも最前列から3列目という、かなりいい席を取ることができた僕たちの目の前にぶらりと彼は現れた。たしか着ていたのはカーキのアーミー・ジャケットではなかったか。
 おそるべし、というかなんというか。ネット上に、この日のセットリストを発見したので引用させてもらう。

Tell Me Why / Mellow My Mind / After The Goldrush / Too Far Gone/Only Love Can Break Your Heart / Let It Shine / A Man Needs A Maid / No One Seems To Know / Heart Of Gold // Country Home / Don't Cry No Tears / Cowgirl In The Sand / Lotta Love / Like A Hurricane / The Losing End / Drive Back /
Southern Man / Cortez The Killer / Cinnamon Girl

 一人で唄っているところへCrazy Horseのメンバーが合流したのか、それともきっぱりと2部に分かれてインターミッションが入ったのかは忘れた。ともかく彼のレコードをずっと聴いてきた僕にとっては、ほとんどが知っている曲だったこともあって、かなり印象に残るコンサートになった。
 飲みながら昔の話をする時、すでに観ていたクロスビー&ナッシュよりも、こちらを語ることの方が多いことでも自分への影響が強かったことがわかる。これ以後、ウエスト・コースト系ミュージシャンへの傾倒が更に進んだと記憶する。

 そういえば今、思い出したけれど、当時の僕は「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」や「ポコ」のレコードを貸し借りする友達がいる一方で、「ブルー・オイスター・カルト」や「シン・リジイ」を聴いて共に語る友人もいて、人によって話をまったく変えていた。
 ひどいときにはそういう人たちともまた別に、当時外苑前にあった「VAN99ホール」(懐かしい!)へ「今田 勝『ワン・フォー・デューク』」なんていうジャズ・コンサートを聴きに行ったりもした。
 つまり「もう何でもかんでも聴きたかった」んだろうと思う。浪人生活1年(実質3ヶ月だけど)の反動はこんなにも大きく、世でよくいう「スポンジのように吸収する」時期だったのかもしれない。

 なかでも、いまだに観に行けば良かったと残念に思っているのが、「三波春夫・東京公演」で、これは当時つきあっていた女の子が、高校時代に三波さんのご子息と同級生だったという縁だった。いろいろあって(笑)結局は行かなかったが、もしこの時これに行っていたら、クレイジー・キャッツ経験と並んで僕のコンサート史上の輝かしい一点になっていたであろうに、かえすがえすも口惜しい。

 レコードの話で言えばこの年、生まれて初めて海賊盤というものを買った。オールマン・ブラザース・バンドとジャニス・ジョプリンのライブ・レコード。ジャニスのレコードは二枚組の一枚、片面の半分がずっとドラム・ソロ(しかも 'move over'の冒頭部分だけ)で、以後海賊版にはおいそれと手を出さなくなった。
 飲みに行くのは神保町から新宿・渋谷へ移り、レコードもバーゲンだけではなく、大学の生協や渋谷・シスコ、そして新宿レコードなどへと、少しだけ出世した。しかし依然として、僕にとってのレコードが貴重品であることに変わりはなく、たとえ新宿の「ションベン横丁」で飲んで酔っぱらっても抱えたレコード袋は決して離さなかった。

 この後もしばらくイーグルスが解散する辺りまでは西海岸のブームは続き、数多くの人の音楽経験のベースを作ったのではないかと想像する。
 そして大学生活も2年目を迎えたこの年1976年の夏、「イーストランド・コンサート」が開かれ、僕はあのグランド・ファンク・レイルロードを観た後楽園スタジアムへ 再び向かうことになる。
フェリックス・パッパラルディ、ニューヨーク・ドールズ、そして日本からは四人囃子が出演、メイン・アクトはジェフ・ベックだった。その日、水道橋の夜空に響く'Definitely Mybe' を聴いて、頭の中で何かがはじけた。
 僕のコンサートへ向かうモチベーションのボリュームが、ここらあたりからさらにそのレベルを上げていく。

 というわけで、今じゃ信じられないかもしれないけど、この頃のニール・ヤングはまだ髪の毛もフサフサしていたこともあってか、ファッションも含めて「ある意味では僕たちのアイドル」("ある意味では" ですよ)だったのでした。
 え?「ニール・ヤングにまつわる恥ずかしい記憶って何か」って? それはね……って、そんなこと書くわけないじゃん。

 次回は「酔っぱらう大学生」の話……になるかどうか? そういえば、しばらくションベン横丁の「越後屋」にも行っていないなあ。

●リック・ウエイクマン、ジェスロ・タル、エリック・クラプトン、サンタナ、バッド・カンパニー、ウイッシュボーン・アッシュ
僕の浪人中に姉が行ったコンサート・チケットを一挙公開!
「サンタナ」のコンサート当日はパーカッションのマーク・シュリーブが「誕生日」だったそうで、そのお祝いにと大量のピンポン球をステージからばらまいたそうな。行けなかった僕にそのピンポン球を一つくれました(笑)













●クロスビー&ナッシュ、ニール・ヤング、ドゥービー・ブラザース
今回登場したコンサートのチケット3種。ドゥービーに行ったのは姉だけ






●イーストランド・コンサートのチケット

●イーストランド・コンサートのチケット

●イーストランドの販促用ステッカー
●イーストランドの販促用ステッカー



 酔っぱらっても決して手放さなかったレコード袋という言葉に、ピンきちゃいますねえ。レコードはCDに比べて大きい。それになんだかやわらかいような気がするし。
 音楽を大切にすることと、レコードを大切にすることは、同じ意味の言葉だったから、思わず抱えて歩いてました。
 独壇場の盛本ワールドをもっと楽しみたい方は、次をクリックして下さい。食いしん坊の人にもお勧めです。「蕎麦」に「唐辛子」を薬味として加えるユニークな発想とか、面白いです。グルメとは、お金を使うことだけじゃない、頭を使うことだと、よくわかります。(大江田)

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