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Yasunari Morimotoの'Live Scraps'No.12
「懐色(なついろ)のナンシー」

 ここのところ、ずっと大学生の頃のことを書いていて、ちょっと飽きた。
 大学生の時といえばワンパターン。漫画を読んで描いて、小説を読み、映画とコンサートを見て酒を飲んでいた記憶しかないからで、そんな話を他の人が読んで面白いのかなあ、というのもあるし、だいいち単調なのでこっちが飽きちゃった。
 だから昔のことといってもちょっと他のことを書こうかと大江田さんに相談したら「そりゃいい」といわれたもんで、今回は別のことを書きます。子供の頃の東京の話。
 というのも、こないだ寺田寅彦さんの随筆を読んでいたらこんな文章に出くわして、ついいろいろと思い出したからなんです。

 毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋の喇叭の音がこのごろ少し様子が変ったようである。もとは、「ポーピーポー」という風に、中に一つ長三度くらい高い音を挿んで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近頃は単に「ププー、プープ」というふうにただ一と色の音の系列になってしまった。
豆腐屋が変ったのか笛が変ったのかどちらだか分らない。
(岩波書店刊・寺田寅彦全集 第四巻「物売りの声」より)

 こないだこれを読んだ。そんで「そうそう、僕が子供の頃は町を行く豆腐屋さんはそんな風に吹いていたけど、いつの頃からか、そんな風に変わっちゃったんだよな」なんて思ったわけ。しかし待てよ。僕が子供の頃と言ったら最近話題の昭和30年代で、いくらなんでも寺田さんと同世代じゃない。
 どゆこと? と調べたらこの文章が書かれたのは昭和10年で、20年の時差があるらしい。ということは、です。
 寺田さんがどこでこの「喇叭の音」を聴いたかは知らないけれど、僕が育った東京・城北地区では、少なくとも昭和30年代にはまだこのラッパの旋律が残っていて、それを聞いたということです。ふーん、なんだか「最後の恐竜を見た」ような気分ですね。そんな古いヤツです、わし。

 そこで思うんですけど、音楽やらなにやらそういう音はレコード、テープ、ビデオ、とまあどんなメディアであれ残される余地があるけれど、こういう「町の音」の類はあんまり残される可能性が少ないですよね。つまり寺田寅彦さんが書き残されたように文章で残すしかない。そこで、僕が子供の頃に聞いていた音ってなんだったっけ? ということに頭が向かった。
 それには当時のことを思い出してみるのが一番いい。てなわけで、今回はライブ・スクラップス番外編「昭和30年代・ハナタレガキが聴いた風景の音」です。
               

***


 幸か不幸か小学校は家のほぼ隣にあった。
 「幸」の部分は家が近いために忘れ物をしてもすぐ取りに帰れることで、生まれつきの性格と、「家が近い」という安心感から、実によく物を忘れた。宿題を忘れ、給食費も忘れ、ハーモニカもタテ笛も忘れた。
 ついでにしたくなると「大」の方のトイレも昼休みに家に帰って用を足すことができたので、この点では実に友達からうらやましがられた。
 なぜか子供は(自分でもするくせに)他人のトイレを揶揄する癖があって、これは今でも変わらない「正しい日本の子供」の伝統であります。
 さて一方で「不幸」の部分はというと、帰り道を友達と共に過ごせないことで、およそ15秒もあれば家に着いてしまう僕は、ジャンケンをしながらランドセルを持ったり持たせたりしながら帰ってゆく友達連中の背を羨ましげに見ていた。
 そんなわけで幼い頃、小学校2年くらいまでならば、ここで観念して近所のソバ屋の息子と一緒に、首にマフラーのつもりの手拭いを巻いて「少年ジェット」ごっこをして満足していればよかったけれど、小学4年にもなるとそうはいかない。
 そこで、本来ならば、学校から帰れば宿題をしなければならないところなのだが、商店の息子であることをいいこと(お客さんが来ていると目が離れるんですな)に親の目をかいくぐってカバンを家におき、少し離れたところに住んでいる友人達と一緒に近くの神社へ向かったりした。

 神社でオモチャにしたのはカンシャク玉やそこいらの石ころで、たぶん鬼ごっこや石蹴り程度の遊びだったと思う。
 覚えているのは友達の1人、町田クンがマッチとカンシャク玉を一緒に半ズボンのポケットに入れて走り回ったためにポケットの中で爆発し、彼のズボンには穴が空いたけれど、町田クンはへらへら笑っているだけでぜんぜん平気だったことくらいで、あとどうやって遊んだかはもう忘れた。

 その神社にはおよそ500mという細長い参道があって、左側に御輿の格納庫が連 なり、右側に並んだ並木の向こうには塀を隔てて車道が走っていた。全体で言うと参道のドンつきが社殿、そしてそのバックヤードにちょっとした空き地を持ったやたらと細長い神社で、僕たちはともかくよくその社内を走り回った。
 神社の社殿に向かって左隣には官公庁の敷地があって、御輿の格納庫の裏には神社と官公庁を隔てる塀が続いている。
 格納庫の後部と塀との隙間は ゴミや雑草でうっそうとしているために遊んでいる最中のトイレも兼ねていたが、そこには今でいうポルノ雑誌が捨てられていて、さすがに手に取ることはできなかったけれど、足や棒でページをめくったり、その上に小便をしたりしてはワーだのキャーだのと騒いだ。
 もちろん今と比べれば、ひじょうに上品な雑誌だったのだろうが、子供にとっては充分刺激的で、おそらく風呂屋の脱衣場でいつも見ていた女性の胸を「そういう目」で見たのはこれが最初の体験だったに違いない。

 神社で午後4時を過ぎる頃になるといったん家へ戻り、商家の息子らしく算盤塾へ行って子供の靴下クサイ教室で暗算や見取り算をして過ごし、6時頃になると家に帰ってNHKのドラマや「ひょっこりひょうたん島」を見た。
 以上が僕のおよそ小学3〜5年生くらいの基本的な生活で、以下はそれに付随する様々な記憶であります。
                  
                 

***


 朝は都電の鳴動で目を覚ました。これは家からさほど離れていない通りを走っていた、日本橋と王子駅を結ぶ19番の都電の音で、鉄輪がカーブにさしかかって線路とこすれる軌道車独特の音にチンチンと鳴らす警笛ベルも混ざっている。
 それから少したつと冒頭で書いた豆腐屋のラッパの声、そして階下で親たちが聞くラジオの音も聞こえてきた。
 当時、テレビがない頃には朝の時計代わりにラジオがつけられていて、ニュースや天気予報、そしてラジオドラマ版の「サザエさん」(注1)が流れていた。なぜだか知らないけれど、記憶の中では井沢八郎の「北海の満月」という曲も流れているから、きっと昭和41年のことだろう。
 フトンをたたみ、階下へ降りてゆくと、線香の匂いにのせて父がたたく仏壇の鉦の音に加えて、エサをねだる十姉妹の声、そして両親が時を急がせる声、等々を聞きながら朝食を済ませる。たいていは刻みショウガとキャベツの浅漬けか白菜の漬け物に炒り卵と味噌汁、それに前夜の残り物が少し加わる程度で、商店の朝飯とはこんなものだった。
 そうこうするうちに「隣の」小学校からチャイムの音が聞こえると同時に親の声も大きくなる。声に背中を押されるようにして教室へ向かい、一日が始まった。始業の合図がジリリ、というベルからチャイムに変わったのはたしか1965年のことだ。

 まだ木造だった小学校の教室や廊下はどういうわけかいつも粘土と墨汁の匂いがしたし、教員室はいつでもカツ丼とタバコの煙、そしてポマードが混ざった匂いがした。
 夏にはさらし粉の匂いを放つ25mプールも冬には緑色の水をたたえて池の水と変わらない香りになり、春にはその水面にどこから来るのか分からないけれど、必ず毎年アメンボがいた。
 昼近くになって給食室からアルマイトの食器が重なりぶつかり、先割れスプーンが金属カゴの中で熱湯消毒されるガシャガシャという音が聞こえると、おもむろに食欲をくすぐる匂いも漂ってきたが、これには同時に脱脂粉乳の特有な香も混ざっていて、一種異様な香りになった。
 「脱脂粉乳」。僕はさほどではなかったけど人気ありませんでした。
 
 僕が通った頃にはすでに校庭はアスファルトで覆われており、夏には夕立のあとにたまった水がお湯のようになった。その上に少し浮いた砂利のせいでよく転んでは肘をすりむいたこの校庭では夏休みの夜になると校舎の外壁に巨大な布を張って映画が投影され、「西遊記」や「白蛇伝」といった初期の東映動画のほとんどをそんな風にして見物した。
 夕方になって家へ帰ると算盤塾にも遊びにも行かないときには近隣からいろいろな音が聞こえてきた。4軒先の魚屋の呼び声。2件隣の文房具屋に集まった学年違いの小学生の声や、少し離れた場所にあった私立学園の生徒達が帰る足音。
 それらが途絶える頃になると遠くから屋台の音が聞こえてくる。石焼き芋屋なら「石焼き芋〜」という売り声と、カランカランという鐘の音で、チリンチリンというベルならそれはおでん屋だった。おでんを買わない方針で、買うなら石焼き芋という両親のせいで、芋よりもおでんが食べたくてしようがないと思う子供になった。長じて酒のアテにおでんを好むのは、ひょっとするとこの経験がトラウマになっているのかも知れない。

 さて、もう少し早い時間なら3軒先、魚屋の一軒手前にあるパン屋、その裏手にある工場へ遊びに行って、パンを捏ねる機械をながめて時間を過ごすこともできた。
 それに飽きれば住宅街の中にポツンとあった駄菓子屋へ行き、甘酸っぱい匂いの店内で正しい駄菓子や日光写真のネガを買い、くだらないくじ引きをして「スカ」をひいては悔しがった。
 そこに聞こえたのは駄菓子屋の年老いた女店主の声と、その店の向かいにいた年上の青年が飼っていたスピッツ(当時流行していた犬種)の鳴き声くらいではなかったか。そのスピッツに姉と僕は追われて、住宅街には必ずあったゴミ箱の上に逃げて泣いたりもした。

 こんな生活の音の上には吉永小百合(注2)や倍賞智恵子(注3)、に加山雄三(注4)の唄声、そして兄が聴いていた初期のエルビスとブラザース・フォアやキングストン・トリオの唄声だった。
 そして僕は小学校6年生になった67年、「007は2度死ぬ」の主題歌のシングル(byナンシー・シナトラ)を買った。これが僕のハジレコである。

(注1)キャストを調べてみると。 
磯野波平:東野英治郎 磯野フネ:三戸部スエ サザエ:市川寿美礼 とか。いやー、ビックリだ。
(注2)明日は咲こう花咲こう
(注3)さよならはダンスの後に
(注4)恋は紅いバラ

 というわけで、小学校の頃に聞いていた音に加えて匂いのことも少し書いてみました。今20〜30代の人がこれを読むとどう感じるんだろう。彼らの子供時代とそう変わらない気もするし、ぜんぜん違う気もする。
 ただこうして書いてみると、残しておかなくてはいけない音や匂い、というのはほとんどないですね。誰の記憶の中にもなくなってしまったとしても、とりたてて大騒ぎするような音はありません。
 でもね、「一つの時代」と呼ばれるものには必ず音や匂いがあって、それが記憶の中にある限りはその時代のことが鮮明に思い出せる、という事実は変えようがないでしょう。
 とすると、僕たちが今過ごしているこの時代を、数十年後に思い出すときにはどんな音や匂いと共に思い出されるのだろう? こんな風に考えると、なんだか不思議な感じもします。
 かといって、20年後に今の時代を思い出そうとして付随してくる音や匂いというのが「携帯の呼び出し音」や、どうやらいつまで経っても「不満」がなくならないらしいラップ・ミュージックの「怒ったような声」、あるいは排気ガスや人工的な匂いだったりすると、少し途方に暮れるような気分になるのは気のせいでしょうか。
 そりゃ昔ゴミ箱から漂っていた生ゴミの匂いがいい、とはまったく思わないけど、どうも時代の匂い、今はあまりいい匂いがしませんなあ。
 次回はいよいよ大学卒業へ。社会へ旅立つらしいです。


2軒先の文房具屋にいた猫を抱いている筆者
 後ろの車がなかなかいい味を出しています。
 その向こうに見える建物は道を挟んだ向かいの和菓子屋ですが、驚くなかれ現存しております。




●4年生の時に買ってもらったオモチャ
 
押入の中で幻灯を投影して1人で遊んだ。



それより少し前はこういう絵本を読んでいた







 盛本氏とぼくは、ほぼ同年代。キャンキャン鳴くスピッツ、石焼きイモの売り声、豆腐屋のラッパの音色。いろんなこと、だいたいわかります。
 僕の体に残っている音といえば、家の裏にあったお寺の鐘の音かなあ。夕方5時になると、毎日、鳴っていました。寂しい音色だった。それから、まだ開通前の環状7号線を通る軍用車の隊列のタイヤの音。町の人がこぞって見に行きました。恐ろしい音色でした。体が凍った記憶があります。
 願わくばふたたび悪い時代になりませんように。祈るような想いの毎日です。(大江田)




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