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Yasunari Morimotoの'Live Scraps'No.14
「貧しい話・その1」
こないだ「ボックスセットCD」のことを仕事で書くことになって、「リック・ネルソン」や「レス・ポール」のボックスをまとめて聴いて、あらためて思ったんですけど、あのボックスセットって通して聴くとすごく面白いですね。
ここを読まれてる方々にしてみればあたりまえのことなんでしょうか。音楽についてのプロでない僕にとってはすごく面白かった。
一人のミュージシャンの人生を切り取って聴いてるような、時によって丸ごと聴かせてもらっているような。また、コンパイルの仕方によって、時代が見えるようにも思えたり、聴いてるものによってはこちらがフラッシュバックしちゃったり。
本当は「丸ごと」じゃなくて、編集のしようによってどうにでもなるものだと、わかった上でなおかつ。ボックスのプロデュースってのも大変だけど面白いんでしょうね。
絵の展覧会なんかではこういうことはよくあります。「全回顧展」とか「●●とその時代」とかいうヤツ、こういう展覧会に行くとその画家の特徴的な画風が確立する前の、すごくプリミティブなタッチを見ることができて、「へえ、昔はあの人の影響を受けていたんだなあ」なんてことがわかったり、「やっぱりこの時代はみんな同じ絵を描いてたんだろうなあ」とか思ったりします。
たとえて言うならいわゆる「レガシーもの・ボックス」が「回顧展」で、レーベルや時代で組まれた「イヤーズもの・ボックス」は「その時代展」、「ヒット曲・コンピレーション・ボックス」が「名画展」で、今になって発見された名画のエスキースやスケッチ、デザイン画の展覧会はさしづめ「レア・トラック集」というところでしょうか。
どれにしてもひとつの時代や状況を俯瞰しようとしている意味では同じなのかもしれせん。自分がそのまっただ中にいるときはぜんぜん気がつかないけれど、あとからフラットなところに置いて見渡してみると、どうしてその時にそんな風だったかがわかる、そういうことなのかもしれないですね。
いきなりこんなことを書いたのは、今回の話があまりにも前時代的だからで、こういうことを今書いたら、読んだ人はどう思うんだろう、と気になったからです。
あんまり貧乏って変わらないのかもしれないしねえ。同世代の人だけに向かって書くつもりもないので、手探りしながら書いてみます。どうなんだろうなあ。ぶつぶつ。
1979年の話になります。日本シリーズで広島カープと近鉄バッファローズが対戦したあの「江夏の21球」の年。翌年の4月、山際淳司さんによるこのルポを掲載した雑誌・ナンバーが文芸春秋社から創刊されて、ある意味で日本の「スポーツジャーナリズム」が転機を迎えることになるわけですが、そのシリーズがあった年。
なんと同年、NECがパソコンPC-9801を発売した。デジタル元年でも合ったんですね。「2へえ」くらいはあるかも。
1979年の春、前回書いたとおり、両親の反対を押し切る形で家を出る。
50ccバイクで探し回り、数日後に選んだアパートはトイレ有り・風呂なし、6畳3畳に1.5畳のキッチンがついた貸家式で32、000円の部屋だった。
場所は西武新宿線の中野区・野方。親切にも月に数回、僕をアシスタントとして使ってくれる大学時代の先輩の家と、数は少なくしかも安いけれどありがたく仕事をもらえる編集プロダクションがある高田馬場の両方に原付バイクで行ける、というのが野方を選んだ理由だった。
本棚と仕事机だけはあったけれど、レコードはダンボール箱に入っていた。デンオンのレコード・プレーヤーとサンスイのプリメイン・アンプ。スピーカーがないので最初はヘッドホンで聴いていたと思う。ともかく金がないので、とりあえず部屋にいた。打ち合わせはもっぱらバイクで出かけ、帰ってくればひたすら部屋で音楽を聴いたり本を読んだり、そしてたまに仕事をした。
冬になるとストーブがないのでコタツを買い、寝るときも起きているときもコタツにいた。横になるかL字になって起きているかのふたつにひとつ。ぐうたらな腹筋運動をしているようなものだった。月に1〜2回、先輩がアシスタントに呼んでくれる時には食事も酒もつけてくれるのが何よりの楽しみで、この頃の栄養は主にこの先輩の家で摂っていた。
そのうち見るに見かねたのか、健康食品の会社に勤めていた高校時代の同級生が「胚芽米」、「乾燥ワカメ」、「醤油」などの試供品を大量にくれた。さすがに塩くらいは買えたので、家にいるときはひとつ50円前後のインスタントラーメン(「楊婦人(マダム・ヤン)」の時代ですよ。個人的には「王風麺(ワンフーメン)」が主でした)と試供品の米を炊いて作ったおにぎりを主食にした。
2〜3日に一度、3合炊きの炊飯器で飯を二回炊く。つごう6合。1合で握り飯が二つできるので全部で12個。そのすべてを皿に並べ、食事の時間になるとそれを二つと「王風麺」を食べて終わり。食後にお茶を飲んでなんの疑問も感じなかった。
今考えても不思議だけど、それでもなおかつコンサートだけは行っていた。Bob Marley & The Wailers,
Rod Stewart, Nick Gilder, The Babys, Al Stewart,Thin Lizzy,
Ry Cooder & David Lindley, Bonnie Tyler……
チケットは学生時代に覚えた買い方を踏襲すれば良かったから、かなりいい席で見ていたと思う。どうやってそのお金を工面していたかは忘れた。アシスタントに雇ってくれた先輩から借りたり、相変わらず似顔絵のバイトをしたりしていたのでそれを充てていたか。
ともかくレコードも買っていたけれど、以前と違って枚数が買えないので部屋にあるレコードはすべて何度も何度も繰り返し聴いていた。そんな状況なのに、そのレコードにしたら数枚も買える金額を一回のコンサートにつぎ込んだのだから、やはりこの頃にはすでに「ライブ中毒症状」が出ていたのだろう。
もちろん貧乏のエピソードを彩る事件もあった。
秋も深まろうとするある日、件の編集プロダクションで仕事をもらった。その仕事も量は少ないので〆切前に仕上がった。が、できたはいいが、その日の食費がない。たぶん2日くらいはあまり食べていなかったと思う。
普段ならその原稿を持って高田馬場まで行けば、多少の現金は前借りできるだろうし、運が良ければ編集者に食事を食べさせてもらえるかもしれない。
いわゆる紙のお金はなかったけれど、ビールの缶に入った1円玉と5円玉を合わせれば、行きの電車賃くらいなら何とかなるし、電車で行けばお酒をおごってもらえる可能性だってある。それまでにも一度ならずそんなことをした。駅の窓口にチャラ銭を差し出すことくらいなんでもない。
ところが、おり悪くその日は日曜日。しかたなく編集者の自宅まで電話をかけて事情を話し、すこしだけアドバンスで原稿料をもらう(というよりもお金を貸してもらう)約束を取り付けた。料金未払いで電話が切られていなかったことも僥倖だった、とその時は思った。その編集者は西武新宿線の四つばかり先の駅に住んでいた。妻子持ちである彼の自宅に行くとなれば食事や酒は望めまい。それくらいの分別はある。ならばと原付バイクのキーを握りしめた。
曇天をついて新青梅街道を走った。おそらくは渡した仕事の原稿料と相殺になることはわかっていたが、その金で今夜はコロッケとチャーシューを買って、缶ビールも買おうと決めていた。野方にはおいしいカレーパンを売るパン屋「桃園パン」や、安くてウマイ「タレつきチャーシュー」やコロッケを売る肉屋があって、銭湯の帰りによく買っていたのだ。しかし。
道程の半分にさしかかる頃バイクが止まった。ガス欠。すでにリザーブタンクになっていたことは知っていたのに、まあ往復10リットル前後ならなんとか持つだろうとタカをくくったのがまずかった。しかたなく押して歩き始めた。
中型免許もまだ持っていないのに「原付で良かった。コレが中型バイクだったら」などと自分に言い聞かせつつ、さらに歩いた。
しかしまあこの手の貧乏譚にはつきものだが、こういう時に悪いことが重なるというのはお約束である。雨。しかもだんだん本降りになってくる。ジャケットの内側に仕込んだ原稿が濡れる。ジャケットのジッパーをあげた。
小一時間も押し歩いたろう。目的の家に着くと玄関先で原稿を渡し、ぬれねずみの様子に苦笑する彼に借用を頼んだ。すると子供と奥さんの声がする奥をチラ、と見て「昨日銀行に行けなくてさ」と小さく言って笑い、千円札を一枚僕に渡してくれた。彼にも事情があるのだ。これで充分。そう思って礼を言い、再びバイクのグリップを握った。
ガソリンを1リットル。それだけあれば部屋まではたどり着けるだろう。残りの金で、チャーシューは買えないかもしれないが、コロッケとビールを買おう。そう考えながら道の途中にあるガソリンスタンドへ向かった、が。休日のガソリンスタンドは開いていないのだった。
けっきょく往復、計7駅分ほどの道のりをバイクを押して歩いた。その夜、コロッケ二つにビールを買えるだけ買った。チャーシューへは手が届かず、ビールを飲み終わると、コタツに入って握り飯を食べた。
今思いかえしてみると、独立生活初年はだいたいこんな生活でしたね。
何を聴いていたのかな。デイブ・メイソンが「スプリット・ココナッツ」を出した頃だったかな。
本文を書きながら思いましたけど、ははあ、ボニー・タイラーとロッド・スチュアートのAtlantic Clossingがヒットした年だったんですね。ニック・ギルダーとか変わったのも行ってます。この年以降、デビッド・リンドレーを追っかけて聴くようになったんだっけ。
パソコンなんて言うに及ばず、ビデオも携帯もなかったから、時間はありあまるほどありました。映画は高くて見に行けないので、ヒマなときはともかくレコードを聴くか本を読むか。「何でも聴く」に「何でも読む」が加わった時期でした。SF、エッセイ、中間小説、純文学、手当たり次第って感じ。本は原付で神保町まで行って買ってました。
それほど強く「イラストレーターになりたい」と思っていたわけでもないけれど、考えてみたら今ほどこの職業はポピュラーじゃなかったような気もします。なんだかフワフワした今でいう「フリーター」に毛の生えたモノだったんじゃないですかね。だいいち、今よりもイラストレーターで食べていこうという人の絶対数が少なかったので、もしかすると今よりも楽だったかもしれません。ともかく「好きなことで食べて行ければ何でもいい」感じ。やっぱり脳天気だったんですなあ。
だいたい金もないくせに、レコードもコンサートも今よりずっとたくさん買ったり行ったりしてますからね。野放図というか無謀というか困ったもんです。
さて。次回はこの年の後半からその次の年へ。まだまだ貧乏話は続きます。あの「巨匠」との出会いや、あの幻のコンサートの話も。お楽しみに。
●ボニー・タイラー
始めて後楽園ホールでもコンサートに行きました。
まだ一曲しかないヒット曲’It's A Heartache’(77年)
だけで来日したような気がします。
●HERBIE-CHICK NIGHT
田園コロシアムでのサマー・ジャズ・フェスのひとつ
後に大江田さんも別のセットに行ったと話してました。
●アル・スチュアート
ジャケ買いの’YEARS OF THE CATだけを聞いていったコンサート。
良かったなあ。あとで他のレコードも買いました。
●ロッド・スチュアート
本文でも書いたとおり'SAILIN''がヒットしたときのコンサートです。電話で予約して、切符の引き取り。普通は郵送してもらうんですが、直接プロモーターへ受け取りに行ったら、応対に出てきた男性が
「こんなに早く来てくれたからいい席をあげよう」
といって、ど真ん中の2列目をくれたのを覚えています。
マニュアルの時代だから、まだそんなことが起きる可能性があったんですねえ。
●ニック・ギルダー
当時この人のポップ・ロックが好きで好きで。
あとでその話を大江田さんにしたら
「ああ、カナダの人ね」
とあっさり言われて、その知識の広さにビックリしたっけ。
好きな割にカナダの人なんてしらなかったんだよね。
●ナンバー創刊号
まさか後年、この雑誌で仕事をもらえるとは
思ってもいなかった頃。
●リック・ダンコ チラシ
この前の年に行ったリック・ダンコのチラシ。
●UFOチラシ
コレは行かなかったけど、なぜかチラシだけ持っている。
珍しいので載せます。
●ジョニー・ルイス&チャー
とはジョニー大倉、ルイズルイス加部とチャーですね。
高田馬場の編集プロダクションで招待券をもらって行ったのでした。
●福一新聞
チラシのファイルを見ていたら、先日他界された福田一郎さんのこんな物が出てきました。キョードー東京で作ったものですね。合掌。
●ライ・クーダー&デビッド・リンドレー
D.リンドレーがEL RAYO Xを出す前だったと思います。
いや、もう出してたかな。良いコンサートでした。
●シン・リジー
BLACK ROSEを出した直後でした。曲もほとんどそのアルバムから。
この時のギターはゲイリー・ムーアじゃなかったけど、プログラムを見たらキーボードがミッジ・ユーロ@ウルトラボックスでびっくり。
●ボブ・マーリー
特にレゲエが好きというわけでもないのに、というか、当時はまだ「レゲエ」というジャンルはそうポピュラーじゃなかったと思うけど、友達に誘われて行きました。すごく盛り上がったコンサートで、すでにファンは多かったんですね。
●憂歌団
レコードを聴いて行くたくなりました。
あら。これもトムズ・キャビンさんだったんですね。
このチケットもデザインがわりと好きです。
どうですか。こういうのもう一度。
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To 盛本康成
さぁ、物語も佳境に入ってきました。えっ、違うって?それは大江田だけだろって?そうかもね。でも今回のお話、僕は大好き。僕にもありますよ、貧乏話。でもね、なかなかこんな風に素直に語れない。実は、ちょっぴりうらやましいなって、尊敬してます、はい。もちろん、次回も楽しみ。(大江田)
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