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Yasunari Morimotoの'Live Scraps'No.15
「ステッピン・アウト」
(貧しい話・その2)
先日惜しくも亡くなった噺家、桂文治師匠の訃報を知らせるニュースを聞いた時、テレビで女性アナウンサーが「カツラブンジ」の「ブ」にイントネーションを置いて言ったんで驚いた。
これは、僕ら落語好きが「カツラブンジ」と言うときは「ブンジ」といささか平板な発音をしている(文章だと説明しにくいなあ)からで、それを聞き慣れた耳にはとてもヘンに聞こえたんですね。えーと、例でいうと「レッド・ツェッペリン」を「ツェッペリン」と平板に発音するように「ブンジ」と言うわけです。へんな例えだけど。
それでその時突然、その昔「The Flying Burrito Brothers」というバンドの名前を「フライング・バリット・ブラザース」(もちろん正しくは”ブリトー”。でもその頃日本にブリトーなんてなかったもんね)とやって、いっとき話題になったことや、アメリカのオモチャ屋で「グルーチョ・マルクス」と言って通じなかったことなんかを思い出しました。ホントは「グラウチョ」と言わなきゃいけなかったんだよ。そんな表記の翻訳本は未だにありませんけどね。正しくはグラウチョと言う。
こんな風に「表記→発音」の段階で間違っちゃうことはママありますが、「発音→表記」という順番で間違うケースもある。ま、これは「間違い」と言ったらいいかどうかもわからないんだけど。
たとえば野球選手、ユニフォームに表示される名前のローマ字表記なんかもそうで、具体的に言うと、横浜ベイスターズ「木塚」選手の表記。普通にヘボン式なら「KIDUKA」となるところが「KIZUKA」になっている。
もちろんヘボン式のKIDUKAが僕には正しく見える。ただこれだと「キドゥカ」と読む人が多くなりそうで、それを避けるためなのかもしれない。
けど、これはどう考えてもヘンだ。その証拠に文章入力変換でも「kiduka」と入力しないと「木塚」にならない(「kizuka」だと「傷か」なんて出ます)し、たぶん「きずか」じゃ本人も気分が悪かろう。
見るたびに違和感を覚えるので、木塚選手がマウンドに上がるたび(木塚選手は投手です、念のため)に「あ、キドゥカだ」とか言っている。
まあこれ、おそらく登録選手名のローマ字表記が「ヘボン式でなければならない」という協定や一元的な決まりがないからそうなったんだと思います(推測ですが)。
ただ、どうやらアチラの(英語圏の)人でもやっぱり同じような誤用をしばしばするみたいで、先日の「曙−武蔵」戦を見ていて「曙」が二の腕に刺した入れ墨を見て「アレ?」と思った。
だって「AKEBONO」はいいとして「YOKOZUNA」ですよ。この場合明らかに「綱」なんだから「YOKODUNA」じゃないかなあ。これじゃ「横砂」になっちゃうじゃん。前のボブ・サップとの試合でマットに沈んだから「相撲ならさしづめ『砂に沈んだ』ということになる」と「横砂」にしたってわけでもないだろうし。「ヨコドゥナ」って読むと思ったのかなあ。
考えてみれば、こういう言葉について言うと、ずいぶん曖昧な表記や読み方をしていた(あるいは’している’)んだと思いますね。通じているのはけっこう「クローズド・サーキット」というか、「閉じた空間」の中だけだった、なんてことが往々にしてある。
つまり、何が言いたかったかというと、1980年というのは僕にとって、ある意味やっと事実上世間に出た年になるからで、前の一年間にそれまで「自分の中だけ」で「こうだ」と思っていたことのことごとくをひっくり返されちゃったんですねえ。
はい。ご賢察の通り。世の中甘くなかったのヨ(笑) もー仕事ないない。「困った」という気持ちもなかったけど、お金もなかったんですな。で、そんな80年を迎える前年、79年の話をもう少し。
どれくらい貧しかったかというと、独立初年の確定申告(つまり80年の3月15日にした申告)、税務署の人がその額の少なさに驚いて、翌日に還付金を返してくれた(事実です)くらい所得が少なかった。え?いくらか知りたいですか? それはナイショです(笑)。
や、仕事が少ないとはいえいろんなことはしてたんですよ。前回も書いたような先輩イラストレーター・漫画家のアシスタント、似顔絵描きの地方出張から、引っ越しの手伝いまで。当時出入りしていた編集プロダクションから指示されて派遣されたアニメーションの背景描きまでやりました。
それとまあ、お金はないけど面白いこともたくさんあったですね。「深夜、玄関のドアをノックする音がするので開けてみたら女の子がウイスキーの瓶を持って立っていた」、そんなカモネギ、というか夢のようなことまであった。いや、これホント。
そんなこんなでその年は暮れてゆき、80年を迎えるちょうどその頃、新聞のコンサート告知欄に驚くべきニュースが載ります。
「ポール・マッカートニー&ザ・ウイングス来日決定!」
ひったまげましたねえ。今でこそそれほど珍しくはなくなったビートルズのメンバーの初来日。もうどんなことをしてもチケットをとろうと思った。で。
その時のアパートから近いこともあって、当時「ここにはけっこういい席が来る」という定評があった中野サンプラザのプレイガイドにずいぶん長いこと並びました。
けっきょく1週間近く並んだんじゃなかったかな。僕を含めた先頭グループが中心になって自主的に列を管理、最終的には200人近くになった連中をまとめ上げた。
この時のことは今も忘れません。列を離れるときには前後に声をかけて、戻ってくるときにはお酒や食べ物を持ってきたり。なんだか目的を忘れて寒空の下でずっとお祭をしているような気分さえあった。
で、御存知の通りコンサートは中止になってしまったけれど、たぶんこの時からきっとみんな「スポーツアリーナの床に座ってショウが始まるのを待っている……」そんな気持ちだったんだと思います。その時に一緒に並んだうちの数人は20年以上経った今でもつながっていて、後年ついに来日したポール・マッカートニー(90年)やジョージ・ハリスンのコンサートに行ったりしました。今はもうあんなことはしないし、またできないけど、ともかく面白かったねえ。
おそらくその後からではなかったか。興行元が「コンサート開催決定を新聞の告知欄に載せた日から整理券を配る」という方式を始めました。
中野税務署からの還付金をもらう頃、「家主の転勤」を理由に1年しか住んでいないアパートを追い出された僕が、その後世田谷に住むことに決めたのは、もちろん友達がたくさん住んでいるエリアだったこともあるけれど、青山にある興行元まで朝一番にバイクで行けることも理由の一つだった気がします。
場所は下北沢と三軒茶屋のちょうど中間、お風呂屋さんの真ウラ。徹夜して就寝、起きるのは午後3時頃。仕事がないときには4時に一番風呂を浴びて帰りがけに豆腐屋さんで豆腐を買い、5時から飲んで夜中まで遊んでる、なんてことをしてました。
やがて80年も半ばになろうとする頃、あまりの仕事のなさもあって、すでに現場で経験を積み、しかも仕事の才覚に長けた友人と組んで仕事をするようになります。取材・原稿書きからデザイン、いわゆるヌード写真を使ったエッチな本のレイアウトなんてこともした。(えー話はそれますが、あの無修正写真というのは数が膨大になると、なんにも感じなくなるモノですな。写真の位置を決めるのにスライド映写機で壁面に巨大に投影したりしてもオモシロイだけで劣情はもよおさない そんなもんなのネ)
ようするに「今のオマエの技術では絵だけじゃ食べられない」と言うことを一年かけて世間からいわれたようなもので、それまでは上手くもないクセに「オレの絵で食ってやる」と意地を張って他の仕事はすまい、と思っていた根性を、貧乏がたたき直してくれたわけ。「自分の場合『言いたいこと』を表現さえできれば絵じゃなくてもいい むしろ『何を言いたいのか』を考えることの方が重要」とうっすらと考えるようになったのはこの頃からでした。
つまりここら辺りでやっと「自分」というクローズド・サーキットから一歩足を踏み出した、そういうことになるんではないか、と。つきあってた女の子と別れたりもして、まあそういう意味でも「一歩踏み出した」んですけど。
そしてコンサート。この年になるとチケットの買い方を完全に把握して、ずいぶんいい席で様々なコンサートへ行きました。
J.D.Souther, Foreigner, TOTO, Karla Bonoff, DEVO, The J.Geils
Band, JAPAN JAM (Cheap Trick, Atlanta Rhythm Section, Kalapana),
E.L.O., The Cars, Dave Mason, Steve Foebert, Christopher Cross,
Jackson Browne, Jeff Beck……
今思えばこの頃が一番コンサートが僕と近い、ひょっとしたら蜜月の時代だったのかもしれません。レコードを聴き倒してから足を運ぶミュージシャンは今ほど遠くなく、手を伸ばせば触れるような気分にさえありました。
自分が考えていることと聴いている音楽がシンクロしている、それは錯覚だったのかもしれないけれど、自分で生活する、つまり自分の足で立ち始めたこの年あたりから、生活と音楽の関わりがとても深くなっていったような気がします。
大江田さんと会ったのもちょうどこの頃。そしてその年の終わり、ジョン・レノンがダコタハウスの前に倒れたのでした。
というわけで、80年が終わります。ジョン・レノンがいなくなって、そしてDEVOのような音楽が登場して。僕にはなんだかこのあたりが「区切り」というか「転換点」になっているような、そんなふうに見えるんだけど、どうなんだろう。
でもまあ、もうそれから24年も経っているわけで、転換した後にどうなったかというと、相変わらずグニャグニャしたまま世界は迷走している。
だいいちその「転換した」っていう年の翌年6月に、去年阪神に入団した鳥谷選手が生まれたってんだからイヤんなっちゃうねえ。
ああそうそう。今回書いた「アニメーションのアシスタント」、そのアニメの作者ってのが故・手塚治虫先生。その頃のことだから「技術もないし、絵も下手」だけどワタクシ、その仕事中に手塚先生の隣に座って絵を描いたことがあるんであります。もちろん緊張して先生の様子は見られませんでしたけど、ちょっと自慢したくて、へへ、書きました。
あと数回でこのシリーズも終わります。もう少しだけつきあってやってください。
次のシリーズはアレで行こうね、大江田さん。
To 盛本康成
実を言うと、このミスター盛本ストリーですが、モノを作りたいと思っている若い人、たとえば音楽でもいいし、デザインでもいいし、洋服でもいいし、それこそイラストレーター志望の人でもいいのですが、モノをつくることの苦しさと楽しさを学ぶに際して、とても素晴らしい実際的なテキストだと思うのです。"「オレの絵で食ってやる」と意地を張って他の仕事はすまい、と思っていた根性を、貧乏がたたき直してくれた"というあたり、これはなかなか書けるもんじゃありません。
もちろんこの言葉を聞きたくて、こうして書き続けてもらったわけでもありませんが、なんだかとてもありがたいという気持ちになりました。
モノを作ることは楽しいけれど苦しいし、苦しいけれど楽しい。それが、たぶん作り手の正直な気持ちなのだろうと思います。素敵なエッセイを、盛本クン、ありがとう。(大江田)
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