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Yasunari Morimotoの'Live Scraps'No.16
「ラストは『ノーパン』でレストア」
えー、2年前くらいから少しずつレストアをしていた僕の愛車がついにこのほど完成しました。81年生産といいますから今年23才。人間だとまだ青年だけど自動車だと「老人」って感じです。
外見は塗装をやり直したのでわりとキレイなんだけど、中はボロボロ。こないだも燃料ポンプから異音がするので修理工場へ持っていったら、燃料タンクの中が錆びているために、その錆がポンプの中に詰まって音が出てるんだそうな。
まあそれは即「要修理」というわけではなくて、部品が入ったら取り替えることにして、いったん家へ向かった、と。
そしたらその2日後ですよ。走っていると運転席の右側から「バキッ!」というけっこう大きな音がした。
「こりゃ、サスペンションかデフあたり(車の駆動部ですね)で何かやっちゃったかな?」
と、慌ててスローダウンしたけれど、走っている分には別にフツウで、挙動も悪くない。何だろうなあ、と車を停めてドアを開けてわかりました。どうやら右側のドアの中で何かがはずれたらしいですよ(後日パワー・ウインドウ動作制御のためのバネが折れた音と判明)。
ああ、まあ大事(おおごと)じゃなくて良かった、と思ったもののドアを開け閉めするたびにガシャガシャ音がするのはたまらない。再び入院することになっちゃった。ドアの中まで歳を取っているんですな。「外見は若いけど中は年寄り」、そんな車です。
そういえばですよ。最近「若い格好」をした年配の人が多くありませんか。向こうから歩いてくる女性、20mくらいの遠目から見ると20代後半、行っていてもせいぜい30代半ばだろうと推量したものの、近づいて来るにしたがって年齢が上がって来、すれ違うときには「ううむ、これは50半ばに届いているかもしれないのう」なんてことがままあります。
その話を妻にしてみたところ、アレだそうですね。彼女曰く「女性は『自分の一番良い時でヘアスタイルやファッションが固定される』傾向にある」んだそうですよ。
なるほどねえ。そういえば時々「おそらくは50代後半」だろうけど、サーファー・スタイル(1980年代当時の)、なんて感じの方を見ることがありますよ。そのお化粧や髪型の感じ(ブルー系のシャドウだったり、ヘアスタイルがダン・カットやソバージュみたいだったり)でちょっと「懐かしい」気持ちになったりすることさえある。
おそらくその頃から雑誌なら「MCシスター」や「JJ」を読んで、「シップス」の服を買っていた人達だったのではないか、そんな風に想像します。
懐かしいなあ。男だと「ポパイ」や「ブルータス」を読んでいたんだよ。数年前に亡くなられた故・堀内誠一さんのデザインワークによるこの2誌は、おそらく当時の20代半ばの大半の男性が読んでいたでしょう。
漫画週刊誌全部とこの2冊。僕の場合はそれプラス音楽雑誌2誌。「ニューミュージック・マガジン」と「ロッキン・オン」。ホントにたくさん雑誌を読んでいました。
今は雑誌、自分で仕事をしている割にあまり読んでいないですけどね。歳とったのかな。うんにゃ、そうではないな。みんな同じ記事しか載っていなくてツマラナイんだよ。雑誌好きとしてはここ、何とかして欲しいと常々思っているんですけど。誰か、僕に雑誌作らせてくれませんか。や、嘘です(笑)。
雑誌作るのって大変ですもんね。
ところでさっきの懐かしいファッションをする女性の話。男性だとあまりそういうことを感じないのは、男の場合、服装は年齢ではなく職業によって決まるからなんではないか、と言うのはこれまた僕の当て推量で、その真偽のほどはさておき、今になってみると「ううむ、やっぱりスーツが似合わない体になってしまったなあ」と思うのは正直なところ。カンロクがないとダメなんだね、あれ。軽佻浮薄では似合わないみたいです。
というわけで、前回のお話で始まったフリーランスとしての社会生活。貧乏ながらもだんだんと仕事は増えていきます。雑誌で毎月の仕事をもらったり、絵を描くだけじゃなくて友人がもらっていたデザインの仕事を手伝ったりするようになる。デザイン作業なんかやったことないから現場で仕事を覚えていったわけです。
そんな話から始まる今回が「ライブ・スクラップス」の最終回。81年から始めて84年までのお話を駆け足で行きます。
そういえばねえ、こないだ車にガソリンを入れに行ったらスタンドの女の子が
「わ! この車古いっスね。いつ頃の車っスか?」
って聞くから
「今年23才」
って言ったら
「うわ、自分より上っス!」
だって。まあ、そりゃそうなんだろうけどさ。まいっちゃうよなあ(泣笑)
1981年。僕の車が新車だった年。安倍なつみと安達裕実が生まれた年です。
へぇ。この二人、同い年だったんだねえ。
その年。同じくフリーのイラストレーター兼デザイナーとして仕事を始めていた大学時代の友人に誘われて、デザイン事務所を開くことになります。
デザイン事務所と言ってもフリーが4〜5人集まっているというだけで、皆仕事はバラバラ。仕事のためのコピー機や高価なデザイン機器を共有、仕事机に加えてそれらを置いておくスペースの確保することが本来の目的で、会社として機能させるつもりはありませんでした。しかも大きな仕事をもらうことになったら全員でやっつけることもできる。わりと質実剛健な事務所の開設です。じっさい古いアパートの一室だったから狭くて、お世辞にもキレイとは言えない。なんというか「タコ部屋」の風情もあって、「デザイン事務所」というには憚られる感じもある、そんな事務所でした。
田中康夫・長野県知事が「なんとなくクリスタル」で芥川賞を取った年、ピンクレディーが解散して、寺尾・世界遺産・聰が「ルビーの指輪」だった年です。
街はどうだったんだろう。
そういえばだんだん思い出してきたけど新宿・歌舞伎町あたり、今では「風俗」と言われる類の店には「ノーパン喫茶」、「のぞき部屋」なんてのが出てきてましたよ。
で、この手の店には今も昔もほとんど足を踏み入れたことがないのだけれど、ちょうどこの年、高校時代の友人に誘われて「ノーパン喫茶」には行ったことがあるんですね。
会社員になっていたそいつが「おごってやる」というので行ったんですけど、ああ、ねえ。これ、あまり人に言ったことないんですけど……、まあいいか? いいな。いいや。で、「ノーパン」(どういう文章だよ)。
地下にある店だったですね。入るとフロアは15畳くらい。壁際にずらりと椅子、そしてその前に小さなテーブルが置いてあります。客の男はみんなここに座ってビールだか薄い水割だかを飲むわけです。で、床は全面鏡張り、コレがミソで、飲み物を運ぶ女の子の足下の鏡面をみんなで見つめている。
そこへ女の子登場。僕はまるきり「タワシ丸出し」(失礼)なのかと思っていましたが、そうじゃなかったですね。パンティ・ストッキングをはいている。そこをすかしてそのナニがムニャムニャ……というわけです。んで、30分に一回くらい踊る時間が来て、会社員のオッサンと女の子がゴーゴー(古いなあ)を踊る。踊っているオッサンは目の前の女の子を見ているから、主に目線を下におろすのは「座っている組」で、僕はと言うと、えー、座ってました。
でも座っていたのは(弁解しますけど)そのナニを見るためではなくて、そのおじさん達と女の子の交流の様子を見たいからでした。オッサンは足元を見たい、でも女の子達は見られたくないからオッサンと話して目線を上に持っていきたい、そのせめぎ合いが面白かったんですね。
加えて女の子達はその店のギャラよりもオッサンをナンパしてその後どっか別の所で別の商売をしたがっている、そういう目的があると言うのもわかりました。
や、この僕でさえ「興味がない」のは一目瞭然だったのに「このあと踊りに行かない?」なんて誘われたからね。いや、「興味がない振りをしているだけ」なのを見透かされたのか? いやいや。たぶんそこにいる男の中で僕が一番彼女たちと年齢が近かったからだと思いますよ。26才でした。大学を卒業して3年目。すでに「フツーの人」とは違う外見を身につけていたのかも。いや、行きませんでしたよ、もちろん。「踊り」なんて……ねえ?
で、この年。音楽が好きな人間にとってはもう一つ大きな出来事があって、それが「渋谷タワーレコード」の開店でした。
アメリカに行ったことのある姉などの人間から「アメリカにはタワーレコードという『レコードのスーパーマーケット』のような店がある」と聞かされて以来、一度は行ってみたいと思っていた店が東京にできる。これはレコード好きにとっての事件というわけです。
今は明治通り沿いにある店が当時開店したのは井の頭通り。現在のハンズのはす向かいだった(今の場所に移転したのは95年)のを覚えている方も多いでしょう。それが渋谷に開店したのが1981年だったんですね。
で。行って驚きました。今のお店と比べたら十数分の一(いや、それ以下?)かもしれませんが、広かったですねえ。シスコもユニオンもあったけど何せ店が小さかったんです。それにカテゴライズも目新しかった。それまでは「米国旅行のおみやげ」かなんかでしか手に入らなかった「ノベルティ関連」のコーナーもあったりして、なんたって安い。感激です。
ただ、中には盤質があまり良くないものもあったので、相変わらずシスコやユニオンと値段、ジャケの様子なんかを見比べて買っていました。うーん、やっぱりヒマだったんだなあ。だからコンサートも行ってます。
Stevie Wonder, The Police, Talking Heads, Joe Walsh, Kraftwerk,
The Boomtown Rats......。
この81年はこんな年。以後82年から83年にかけて、徐々に変化が訪れます。
事務所を作ったせいか仕事も少しずつ増える。その事務所も移転して広くなったのは事務所を構成している他の人達の仕事も増えたからで、だんだんと出版を中心とした絵やデザインの仕事に慣れて来たと思われました。
その頃になると、事務所での友人関係に加えて仕事で知り合ったフリーランスの人達とのつながりが増えて、コンサートにも一緒に行くようになります。出版関連の人が多いので自然と音楽も「時代」を反映するもの。「ニュー・ウエイブ」でした。
イギリスに端を発したニューウエイブ。今聞くとなんか変ですね。ただの「新しい波」だもんな。ドイツあたりではロンドンのそれと一線を画して「ノイエ・ドイッチェ・ヴェレ」なんて言ってました。
70年代終盤に登場したYMO(78年1stリリース)、セックスピストルズ(77年1stシングル リリース)以来、大きな動きを見せ始めていた「テクノ」、「パンク」と言われる音楽が「ニュー・ウエイブ」というくくりになって定着、街にもその手の音があふれるようになってきました。そこにカテゴライズされた音楽のコンサートで言うと、81年のTalking
Headsが最初だったかもしれません。
当時事務所で仕事をしながら聴いていた音楽を考えるとわりとすごいことになります。
全員音楽の趣味が違うので、それまで聞いていたウエスト・コースト系の音楽に加えてニューウエイブ・ムーブメントの音楽や民族音楽、果てはジャズからアイドル歌謡曲、今で言うJポップ関連もずいぶん聴きました。
その時の編集テープ数本を見てみると……
Eric Kaz, Jackson Browne, 小泉今日子, 松本伊代, Eagles, U2, The Band,
Cheap Trick, 桑田靖子, Kate Taylor, 土屋かおり, Bonnie Raitt, Scriiti
Politti, 山口美央子, Chris Spedding, The Clash, Pig Bag, 松田聖子, Steve
Miller Band, 原田知世, J.Geils Band, The Cars, Pretenders, Siouxsie
& The Banshees, Japan, Harold Budd, 薬師丸ひろこ, Roxy Music,
James Blood Ulmar……
どうかしてるんじゃないか、って感じですよね。でも実際こんな風でした。まあ、こういうのを聴きながらの仕事はまさに混沌(カオス)。従来のイラストレーションを描く仕事から最初に書いたとおり友人が引き受けてきたデザインの仕事のサポートまで様々。たいていが徹夜で明け方に仮眠、食事は近所から出前でとる焼魚定食(か、焼肉定食)、もしくは事務所のビル一階にあるコンビニのサンドイッチなど、と相場が決まっていました。
移転した事務所は、自宅アパートから歩いて10分くらいの所にあるのにほとんど帰らない。帰るのは週に1〜2回、8時間以上睡眠を取るために戻るだけ、という有様でした。たぶん月平均の睡眠時間も2〜3時間くらいだったんじゃないか。若いというだけじゃない、なんか勢いみたいなものがあったんでしょうね。今じゃそんな生活、考えられませんけど、ホントに仕事って来るときはまとめて来るんですね。合間を縫ってコンサートへ行ったり飲みに行ったり。自転車操業だったけど充実している。そんな気分だったでしょう。
さすがにこれを2年やると僕も少し疲れて、83年には長めの休みを取り、旅行(今、当時の手帳を見たら2ヶ月滞在したニューヨークでライブを22本見てました(笑))に行ったりもしました。長い休暇の後、一時的に仕事も減りましたが、また復活。再び仕事とコンサートの日々へ舞い戻り、そして84年を迎えます。
仕事は忙しくなるし、ライブにも行っている。でもこの「ライブ・スクラップス」をここで終える事にしたのには、一つ理由があります。
その前の年あたりから始まった、女子大生を使った深夜テレビ番組「オールナイト・フジ」という番組。覚えている方もいらっしゃるでしょう、この番組での告知により、ライブ好きを驚かせるとんでもない事が始まりました。
「チケットぴあ」。
電話で申し込んでチケットを予約、受け取るのはそこここにある「チケットぴあ」の窓口、という今でこそあたりまえのこの方法はこれが始まり。忘れもしない「ローリー・アンダーソン」のチケットでした。
首都圏以外に住む人達にとっては公平なこの方法も、それまで自分の目で座席表を見ながらチケットを買っていた人間にとっては手間が増えただけ。席の位置も「くじ引き」とあっては不平も覚えます。しかし、まあそれは「公明正大」を理由に得心するとして、ライブ好きにとって何よりも悲しかったのは「チケットの消滅」でした。
コンピュータによって出力されるチケットは今に至るまで無味乾燥にして画一的。ライブには相変わらず行き続けているけれど、この点については、以後ある意味でコンサートへのモチベーションが低下していきます。その第一弾が当時「デジタル音楽」の急先鋒だったLaurie
Anderson、というのも偶然の一致ではないでしょう。
ホスト・コンピュータの導入によるシステムの構築。これは見方によっては非常に有用なことだと思います。でも、視点を変えればコンサートのチケットに限らず、システムがブラック・ボックスになってしまったようにも思え(日韓W杯のチケット問題も少なからずこの点が関わっているでしょうし)、ましてやそこに携わる人達が動く様子を見ることや、長い列を並んでようやく切符を手にしたときの気持ちを感じることはもうないんだなあ、と古い人間は少しだけ感慨が深くなります。
いや、並ぶ必要がないことや、遠くにいる人でも買える、と言うシステムを否定はしません。そっちの方がいいに決まっている。でも、スイッチを押すだけの関係、あるいはオン・オフだけの選択、と言うことについてはいささか違和感も覚え、84年以降、未だにコンピュータ出力のチケットになじめないまま、携帯電話を持たない中年の道を選んでいると言うわけです。
そして今。1984年にはジョージ・オーウェルが予言した未来都市はなかったけれど、90年代以降になると、それよりも悪い方向へ向かうシナリオが書かれようとしているような気がしてなりません。僕たちはどうすればいいんだろう。おいしい酒でも飲みながら考えてみることにします。
さて。長くなりました。この80年代の終わり、僕が例の車を「6年オチ」で買った2年後の89年に「昭和」という時代が終わります。
あの10年間はとても面白かったけれど、そのせいかどうか、30才を過ぎたころ、ひどく体もこわしました。だから今はもうあの頃のような生活(「ノーパン喫茶」も含めて)はもうけっしてできないし、しないと思います。
ただ今の暮らしを迎えるためにあの10年があったような気もして、ちょいと痛がゆいような気持ちと共にたまにはフト思い出すこともあります。というわけで、その点ではこの連載は楽しく書かせてもらいました。またどこかのライブ会場であったおりにはビールでもひとつ。
最後にこの場を与えてくれた大江田さんに感謝。そして読んでくだすったみなさん、ご愛読ありがとうございました。
<ライブ・スクラップス 了>
<おまけ>
タワレコの開店記念でもらったシール・オープナー。
レコードをシールしてあるビニール。
あれを爪で切ろうとしてよく指先を切りました。
深く切れるから痛いのよねえ、あれ。
当時タワレコで買ったノベルティものの一枚
”Mighty Mouse"
内容は……あんまり面白くなかったね(笑)
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<1983 NYでのライブのこと>
本文でちょっと書きましたが、1983年、
長い休暇を取って旅行に行きました。
訪れた街の一つがニューヨーク。
そこのライブ関連を少し。
以下、当時のライブの切り抜きモロモロ。
●1983NY-0
今は無きクラブ「リッツ」のライブスケジュール。
THE CALLにはこのバンドのプロデュースもした
GARTH HUDSON(EX.The Band)がキーボードで
出演してました。
●1983NY-1
これはCBGBのライブスケジュール。
どれに行ったかは忘れちゃいました。
●1983NY-2
ここも今はもうないですねPEPPERMINT LOUNGE。
ここと、DANCETERIAというクラブが当時流行ってました。
●1983NY-3
観に行うと思って切り抜いたライブの記事。
●1983NY-4
知らず観に行ったらすごく良いライブでした。
すごく有名な人だったんですね。
●1983NY-5
これは行けなかった。
そっとNRBQも出演中。
●1983NY-6
路上で配っていたチラシ。
怖いので行きませんでしたが、今考えると行っておけば良かったなあ。
●Tシャツ1
NYに着いて数日。このTシャツを着てホテルを出ようとしたら、アフロ・アメリカンのおアニいさんに呼び止められました。
身を固くしてそちらを見ると、このTシャツを指さして何か言っている。
「そのTシャツ、どうしたんだい」
「あ、これ。何年か前に姉貴がロスに行った土産にもらったんだけど……」
「懐かしいなあ。オレ、そこで働いてたんだよ。いい店だって言ってたろ?」
「うん。レコードももらったよ」
「かっこいいねえ、じゃあね」
なんて会話がありました。
●Tシャツ2
その胸のイラストの拡大図。
ひょっとして御存知の方もいらっしゃるんでしょうか。
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To 盛本康成
ひとまずこれでライヴ・スクラップスは終わりです。盛本クン、ありがとうございました。お疲れさまでした。
それにしても盛本クンのライヴ好きは今もまだ変わっていなくて、落語に演劇に音楽に野球と、しばしば会場というか現場に出向いていますね。このあいだハイファイに立ち寄ってくれたときは、歌舞伎観劇の前でしたっけ。もちろんCDやDVDにも熱心だけれど、それ以上にライヴにご執心。どうぞ彼の最近のライヴ話は、下のリンクから「新・ライブラ日記」をご覧ください。
僕は彼の影響を受けて、まだほんの数回ですが、落語を聞きにいきました。会場はいかにも詳しそうな人たちがいっぱいの国立小劇場で、思わず話のおもしろさに悶絶していると、笑っているのは僕たち夫婦だけなんてことも。通というのは、なんとも不思議なものだなあと思いました。なにしろ笑わないのです。僕らが軽いくすぐりに過剰に反応しているのかもしれませんが。落語にいくら詳しくなったとしても、笑うところでは笑いたいなとも思いました。音楽の場合もね、なんだか一緒のように思いますけど。
ところでハイファイ入り口正面には、いつも額装した一枚の絵を掛けています。このところは盛本クンの作品です。何枚かの絵をお預かりしているので、気が向いたらまた絵を掛け替えるつもりです。こちらもみなさま、どうぞよろしく。(大江田)
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